■記録に残っていない日本代表のキャプテンたち

 ところが、「キャプテンって何?」と聞くと、監督によって、チームによって、実にさまざまな考えがある。1998年から2002年まで日本代表の監督を務めたフィリップ・トルシエは、「試合前に相手のキャプテンと握手してコイントスをするだけの役割」と公言してはばからなかった。彼はチームを編成するときに明確なキャプテンを指名することはなく、それぞれの試合前のミーティングで先発メンバーを発表すると、「キャプテンは○○」などと付け足しのように言うのが通例だった。

 だがそれが「フランス・サッカーの常識」だと思ってはいけない。2003年にフランスで行われたFIFAコンフェデレーションズカップを取材したとき、私はリヨンの書店で素晴らしい本を見つけた。『Capitaines des Bleus(フランス代表のキャプテン)』と題された大判の本は、フランス代表が初めて組織された1904年から2002年まで約100年間の全キャプテンを網羅したものだった。

 その本によると、この間、キャプテンとして試合に臨んだ選手は全部で97人。「初代」はフェルナン・キャネル、「第50代」は1958年ワールドカップで3位に導いたレイモン・コパ、「第70代」はミシェル・プラティニ。最も多くの試合でキャプテンを務めたのは、「第84代」、1998年ワールドカップで優勝トロフィーを掲げたディディエ・デシャン。彼はフランス代表として103試合に出場したが、その半数以上の54もの試合で青―白―赤の「フレンチ・トリコロール」のアームバンドを巻いたという。

 何よりも驚くのは、フランス代表の全試合で誰がキャプテンだったのか、すべて記録が残されていることだ。日本代表の公式記録集には、それぞれの試合の監督が誰だったかは記録されているが、誰がキャプテンだったのかは残されていない。このフランスのような本をつくることなどできない相談なのである。

 歴史を1世紀半ほどさかのぼれば、サッカーが誕生したころには、キャプテンは非常に大きな存在だった。「ジェントルマンのスポーツ」であったサッカー。キャプテンは試合前に相手と打ち合わせを行い、試合時間、選手数、そしてピッチの大きさまで決めなければならなかった。レフェリーはおらず、両チームのキャプテンが自チームの反則を罰した。不正行為があったときには、その選手を退場処分にする権限までキャプテンに与えられていたのである。

 しかしやがて後に線審、さらには副審となる2人の「アンパイア」が登場し、そのアンパイアの意見が合わないときにピッチ外で試合時間を計っていた紳士に「どっちですか」と問い合わせたことで生まれた「レフェリー」がピッチ内にはいって笛をもち、試合のすべてを判定するようになると、目に見えるキャプテンの役割は試合前のコイントスぐらいになってしまう。

 もちろん、サッカーの歴史には数多くの偉大なキャプテンがいる。誰が史上最高のキャプテンかなどというのは、大いなる愚問だが、キャプテンのプレー、立ち居振る舞い、そして何よりも味方を鼓舞するリーダーシップが、そのままチームの「人格」のようになった例は数限りなくある。ひとり挙げろと言われたら、私は1950年ワールドカップでウルグアイを優勝に導いたオブドゥリオ・バレーラの名を出すかもしれない。彼がいかに偉大なキャプテンだったかは、サンパウロ在住の沢田啓明氏が書いた労作『マラカナンの悲劇』(新潮社、2014年)に詳しい。

PHOTO GALLERY 全ての写真を見る
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4