■編集者、第一の教訓
さて、受け取る側と同じように、エアカーゴを送る側も大変だった。
送るときも、専門の会社に依頼することはできるが、手数料がばかにならないので自分で航空会社の貨物窓口にもっていくことになる。そこは例外なく空港にあり、旅客ターミナルから遠く離れた貨物エリアにある。場所を探すのも、そこまで歩いていくのもひと仕事だった。
アジアカップの予選に出場する日本代表の取材をするため、1975年にカメラマンの今井恭司さんとともに香港に行ったとき、私は大きな失敗を冒した。
当時、パンナム(パンアメリカン航空)というアメリカの巨大航空会社があり、その威信を示すために「世界一周便」というのを飛ばしていた。ニューヨークからは東へ東へと飛んでサンフランシスコに至る001便、サンフランシスコからは西へ西へと飛んでニューヨークへ至る002便。これを毎日飛ばしていたのだ。東回りの001便は香港に次いで羽田に着陸する。香港から東京に今井さんのフィルムと私の原稿を送るにあたり、「毎日飛んでいるから何かあっても翌日には着くだろう」と、この世界一周便を使うことにしたのだ。
締め切りの日、私は徹夜で原稿を書き上げ、早朝、今井さんが撮影したフィルムとともに啓徳空港のパンナムの貨物窓口にもっていった。001便の香港出発は朝9時だったから、タクシーを飛ばし、充分間に合わせることができた。
空港から戻って午前中少し休み、午後、日本対北朝鮮戦の取材に出かけて戻ってきたとき、東京から電話がはいった。荷物が着いていないというのだ。あろうことか、パンナムが調べたところ、今井さんのフィルムと私の原稿を入れた荷物は、羽田では下ろされず、サンフランシスコまで飛んでいってしまい、早くても数日後でなければ東京には戻ってこないというのだ。
「エアカーゴは目的地が最終到着地である便に乗せること」
これが第一の教訓だった。
当時は、長い原稿を書くときには「下書き」をしていた。再度清書して送ることもできた。だがいっしょに送る今井さんのフィルムはその日の試合のものだ。私はその晩も徹夜してまったく新しい原稿を書き、また早朝、啓徳空港に向かった。こんどは日本航空。ともかく羽田以降には飛んでいかない便を選んだのだ。