ブエノスアイレスのサッカーマガジン編集室。ここから毎日原稿を出した。立っているのは千野圭一さん。
ブエノスアイレスのサッカーマガジン編集室。ここから毎日原稿を出した。立っているのは千野圭一さん。
少年のころ、やっと買ったサッカー雑誌は貴重だった。ピンナップは壁に画鋲で貼り、記事は何度も読み返した。送り出す編集者だった大住さんは、これもいまでは考えられない貴重な経験を重ねたご様子。はたして、「編集者の鬼門」とは。

■「航空貨物で入稿」の時代

 私が「サッカー・マガジン」で働き始めたとき、原稿は「飛脚」が運んできた――。そんなことを書いたら「へえ~」とまともに驚く若者がいそうで、少し怖い。

 だがインターネットを通じて原稿も写真も一瞬のうちに地球の裏側まで送ることができる昨今と比較すると、私が仕事を始めた昭和40年代(1970年代前半)は、雑誌をつくるための原稿や写真を送ったり受け取ったりする仕事は、「石器時代」と言ってもよかった。

 メールはもちろん、ファクスもない時代の話だ。「原稿取り」は、編集者にとって重要な仕事だった。締め切りの日、原稿をお願いしていた筆者に電話し、原稿ができていることを確認すると、「では○○時にうかがいます」と受話器を置く。そしてその時間に間に合うよう、筆者の勤務先や自宅に向かうのだ。

「原稿をもらったらその場で読み、感想を言って、その後に次号の打ち合わせもしてくるんだ」

 新人のころにそう言われた。いまは原稿取りはないが、編集者にとって重要な教えだと思う(このサッカー批評Webの私の担当編集者は古い時代に鍛えられた人に違いない。私が叩き込まれた教えどおりの対応をしてくれる。いちども会わずに連載が始まり、数年間続いていちども会わないうちに連載が終了するという編集者も珍しくない現代、希有な存在と言ってよい)。

「サッカー・マガジン」の筆者のなかには、賀川浩さんや大谷四郎さんら、関西をはじめ東京から遠く離れた地域に在住の方も多かった。そうした方々には、原稿を郵送してもらっていた。

 当時賀川さんは産経新聞大阪本社の「サンケイスポーツ」編集局長という要職にあり、ご多忙な毎日だった。そのうえに筆が速いとは言えず、書いたものに何度も手を入れ、削除したり付け加えたりするから、編集部でどうしても入稿しなければならない日の朝に原稿が仕上がるということが多かった。

 だが賀川さんが締め切りに遅れることはなかった。郵送では間に合わないとなったとき、賀川さんは「航空貨物」で送ってくれたのだ。大阪(伊丹)から羽田に飛ぶ旅客機に荷物を乗せるのだ。

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