夜明けのサッカー談義
長い長い待ち時間を、私は何をして過ごしていたのだろう。奥さんや、まだ幼かったお嬢さんたちと話したり、アシスタントの人たちの仕事ぶりを見ていたのかもしれない。残念ながら、望月先生の作品を片っ端から読んだ、という記憶はない。
あるとき、アシスタントのひとりから「東京の『都(と)バス』は、車体に何て書いてあるんですか」と聞かれた。地方から出てきて横浜の仕事場にほぼ「カン詰め」状態の彼ら。東京になど、ほとんど行ったことがないと言う。漫画家の仕事場だから、いろいろな乗り物の写真集などさまざまな資料があったのだが、どこにも「都バス」の写真はないという。
「『東京都』かな、『都営バス』かな……」
毎日のように見ているはずなのに、注意力が散漫なのだろう、まったく自信がなかった。アシスタントがみんな集まり、ああだ、こうだと言っているが、結論はなかなか出なかった。
文字の原稿なら、細部がわからなくても適当にごまかすことができる。写真なら撮ったままが「真実」だ。真っ白な紙の上に一切を自分のペンで描かなければならない漫画という仕事の大変さの一端がわかるような気がした。
翌朝起きると、奥さんが「出来たわよ」と声をかけてくれる。顔も洗わずに「階上」に上がると、いつもどおりの、にこやかな先生がいる。ストーリーを考え、アイデアをひねり出すときの「創造の苦しみ」の姿を、望月先生はけっして他人に見せなかった。
そして原稿をもらうと、それから1時間ほどサッカー談義に熱中し、私はようやく貴重な原稿を胸にかかえて編集部に出勤ということになるのである。
望月先生は横浜近辺の友人を集めた「ワイルド11(イレブン)」というサッカーチームをもっていた。もっぱら親善試合をするチームだったから、私もときおり試合に呼ばれた。私のプレーが望月先生を喜ばせたことはいちどもなかったが、たまにいっしょに参加した編集部の後輩、千野圭一さんのプレーには大喜びだった。
やがて私は、土曜も日曜もなかった『サッカー・マガジン』編集部の仕事を離れ、日曜日にはきちんと自分のチームの練習や試合に参加できるぜいたくな身分になった。そして自然に、私のチームと「ワイルド11」の練習試合も定期的に行われるようになった。
1937年生まれの望月先生は、1980年代には40代の半ば過ぎだっただろう。チームではもちろん最年長だった。だが元気さとサッカーへの愛情では右に出る者がいなかった。額が広くなりかけていた(失礼!)長髪にいつもヘアバンドをつけ、FWとしてチームの先頭に立っていた。望月先生は、「永遠のサッカー青年」だった。