泊まり込みの原稿取り
新型コロナウイルス騒ぎに右往左往するなかで、情けないことに、望月三起也先生の命日が過ぎたのをすっかり忘れてしまっていた。
サッカー好きの漫画家として知られた望月先生は2016年の4月3日に逝去された。享年77歳。『ワイルド7』という不朽の名作により1980年代から日本の漫画界の「巨匠」のひとりだった望月先生は、同時に、心からサッカーを愛し、自らプレーし、そして何よりも、黎明期にあった日本の女子サッカーを損得抜きでサポートし、軌道に乗せてくれた大功労者だった。『サッカー・マガジン』の編集者として仕事をスタートした私としては、「絵故ヒイ記」を連載してくれていた望月三起也という人を「先生」と呼ぶ以外にない。
望月先生の自宅兼仕事場は、横浜駅から東横線で2駅目の東白楽という駅から歩いて10分弱のところにあった。私の自宅は横須賀だった。連載が始まってすぐに望月先生の担当が私になったのは、ごく自然のなりゆきだった。原稿を受け取りに行くのは帰宅前か出社前。時間も交通費も節約できる。
しかし相手は「巨匠」である。電話をすると「何時に取りに来て」とか「明日の朝には」などと言われるのだが、その時間にうかがっても数時間以上待たされるのが通例だった。
あるときには、「2泊3日の原稿取り」ということまであった。
「夕方には」という約束だったのだが、とっぷり日が暮れても「階上」の望月先生からは「できたよ」の声がかからない。優しい奥さんは「大住さん、お食事は?」と食卓に誘ってくれる。当時望月先生の仕事場には少ないときでも5、6人の「アシスタント」がいて、何人かは住み込みだったはずだ。若い彼らの3食を用意するのだから、奥さんは大変だっただろう。「1人増えても用意する分量はたいして変わりないだろう」と、遠慮なくごちそうになった。
しかし深夜になってもまだ先生から声はかからない。こんどは奥さん、「泊まっていったら?」。アシスタントのための仮眠の部屋もベッドもあったのだ。そして翌朝起きても、まだ原稿は完成していない。仕方なく、私は朝食をごちそうになり、夕方にまたお邪魔しますと言って東京・神田の編集部に出勤ということになる。
そしてその夜も、前夜と同じ会話の繰り返しというわけである。