大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第197回「アジアカップ70年目の真実」(1) UEFAより早い誕生劇!独立ブームの熱と「英国領」香港が主導したアジアサッカーの夜明けの画像
2011年カタール大会で優勝トロフィーを掲げて歓喜を表現するアルベルト・ザッケローニ監督と日本代表チーム。2004年中国大会を前に優勝トロフィーは修復され、台座の大部分は銀製になり、そこに直接優勝チーム名が刻まれた。再び優勝杯を手にすることができるか。©AFC

 今や24か国が約1か月にわたって熱戦を繰り広げ、世界中が熱視線を送るメガイベント「AFCアジアカップ」。しかし、その熱狂の源流がどこにあったかを知る者は少ない。サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。第1回は、かつて英国の血脈が息づいていた香港を舞台に、なんとUEFA(欧州サッカー連盟)より早く産声を上げたアジアサッカー連盟(AFC)誕生のドラマに迫る。【第1回/全3回】

■ 独立ブームとヘルシンキ五輪、終戦後に燃え上がったアジアの熱

 イエメンのフーシ派とサウジアラビアの紛争で開催が懸念されているAFCアジアカップ2027サウジアラビア大会(1月7日~2月5日)。アジアカップは今や24チームが出場し、グループステージとノックアウトステージを合わせて約1か月間、51試合を行う大きな大会だが、70年前の1956年に第1回大会が開催された時には、出場4チームの総当たり全6試合、大会期間も15日という小さな大会だった。

 1956年は日本で言えば昭和31年。第三次鳩山一郎内閣(自民党)の時代である。1945年の太平洋戦争終結後から続いてきた連合国(アメリカ)による占領状態が1952年の「サンフランシスコ平和条約」の締結によって終了し、日本が主権を取り戻してからわずか4年後のことである。

 第二次世界大戦後、アジアは「独立ブーム」だった。多くの地域が欧州列強の植民地から独立の動きを始め、戦前には10に満たなかった独立国は、1950年には20近くに達し(1950年の時点では、日本は「独立」状態にはなかった)、さらに続々と新しい国家が誕生していた。

 そんな時期に、「アジア独自のサッカーの大会を開催しよう」という動きが起こり、それは1952年のヘルシンキ(フィンランド)・オリンピック(7月19日~8月3日)での各国サッカー協会代表の会合で大いに盛り上がった。しかし交通も通信も現在とはまったく違う状況だった当時、具体化には進まなかった。

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