■「世界のリーグ」とともにW杯会場へ

 1979年、このスタジアムにとって大きな出来事が起こる。1934年、1938年のワールドカップ連覇の立役者のひとりだった名FWジュゼッペ・メアッツァの死である。

 1910年にミラノで生まれたメアッツァは、インテルナツィオナーレ・ミラノのFWとして17歳から30歳までプレー、348試合に出場して241得点を挙げた。その間にイタリア代表でも54試合33得点の記録を残している。しかし自由奔放な言動でファシスト政権に目をつけられ、イタリア代表監督ビットリオ・ポッツォは彼を選ばないようにというプレッシャーを受け続けた。しかしポッツォはそのプレッシャーに屈しなかった。ワールドカップ優勝を目指すには、どうしてもメアッツァが必要だったのだ。

 第二次世界大戦中には「ACミラノ」でもプレー、その後いくつかのクラブを渡り歩いた後、1946年にインテルナツィオナーレ・ミラノに戻り、1シーズンプレーして引退した。メアッツァはイタリアが生んだ世界的な名選手であり、ミラノ市民の誇りだった。そこでミラノ市は「サンシーロ・スタジアム」の正式名称を変更、「ジュゼッペ・メアッツァ・スタジアム」とすることを決定したのである。発表は1980年3月2日、ACミランとインテルナツィオナーレのダービーマッチの試合会場だった。

 1966年ワールドカップでの惨敗(北朝鮮に敗れてグループリーグ敗退)を契機に禁止されていたセリエAでの新外国人選手との契約が1980年に解禁になり、他の欧州諸国リーグとは違い大金持ちの会長がポケットマネーを注ぎ込む形のイタリアのクラブは短期間のうちに「世界のトップ」リーグとなっていく。フランスのミシェル・プラティニがユベントスをセリエAと欧州チャンピオンズカップ優勝に導くと、セリエAクラブは競って世界のトップスターを獲得するようになる。1982年ワールドカップで3回目の優勝を飾ったイタリア代表のスターたちと世界のトップスターが競う1980年代のセリエAは、間違いなく「世界のリーグ」だった。

 そうしたなか、1984年5月、1990年ワールドカップのイタリア開催が決まる。「世界のリーグ」の地でのワールドカップ開催は、まことに時を得たものだった。

(4)へ続く
PHOTO GALLERY ■【画像】サンシーロの特殊な外観
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