大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第189回「アメリカ・サッカー小史(下)」(3)崩壊寸前から観客7万人が熱狂へ、王様ペレ獲得の裏側の画像
ヨハン・クライフ(左)も、アメリカのプロサッカーリーグに加入。呼び水は「王様」ペレだった。撮影:原悦生

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、気になるワールドカップ開催国のサッカーについての続編。

■独特すぎるルール

 さて、1968年4月にスタートを切ったNASLは、17クラブが2つの「カンファレンス」に分かれ、さらにそれぞれのカンファレンスが2つずつの「地区」に分かれ順位を争う形がとられた。各チームは32試合を戦い、前年にNPSLが使用した特殊な勝ち点制度で順位を争った。

 NPSLからNASLに引き継がれた勝点制度には、攻撃的な試合を奨励し、得点を増やそうという狙いがあった。「勝利に6勝点」「1ゴールごとに1ポイント、最多3ポイントのボーナスポイント」というものだった。

 こうした特殊な勝点制度、さらには後に採用された「35ヤードライン・オフサイド・ルール(ゴールから35ヤード=約30メートル)だけの地域でしかオフサイドにならない」、引き分けをなくして「シュートアウト(PK戦のようなものだが、キッカーが35ヤードからドリブルし、GKもゴールラインから前進して守備する)」で勝負をつけるなど、NASLは特殊ルールで世界からは「キワもの」のように見られていた。

 NASLの足取りは確かに頼りなかった。2年目の1969年には参加チームが10に減り、さらに1970年には8チームとなった。「USA」時代のように欧州のクラブを丸ごと参加させるチームもあり、「サッカー選手の季節労働市場」のようになっていった。NASLはそれまでにいくつもあったアメリカのプロサッカーリーグと同様の運命をたどるかと思われた。

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