大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第173回「日本サッカー夜明け前の日本代表監督とアルゼンチン代表」(1) 就任を10年遅らせた「日韓戦2ゴール」、日本サッカー父の下で貫いた「プロの道」の画像
サッカー日本代表監督時代の加茂周さん(1996年2月撮影)。©Y.Osumi

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニアックコラム。今回は日本サッカーの「夜明け前」。

■ハシゴを外された「総監督」

「可能性はある。会いたい」

 1984年10月、南米取材から帰国した私は、日本サッカーリーグ(JSL)の日産自動車サッカー部に連絡し、東京・東銀座の日産自動車本社に、当時サッカー部の「総監督」という立場だった加茂周さんに会いにいった。「ダメ元」と思っていた私の話に対し、意外なことに加茂さんは乗り気になった。話しにいった私のほうが当惑した。

 三菱重工から日本サッカー協会への「出向」という形で日本代表監督を務めていた森孝慈さんは、この年の4月にシンガポールで開催されたロサンゼルス・オリンピックの予選で4戦全敗という結果に終わり、9月の日韓定期戦(ソウル)を最後に退任することが濃厚だった。その後任として、この頃、加茂さんに白羽の矢が立っていた。その準備のため、加茂さんは日産の監督の座をコーチだった鈴木保さんに任せ、自身は「総監督」という立場になって第一線から退いていた。

 ただ、9月30日にソウルで行われた日韓定期戦で日本代表が2-1の勝利を収めたことにより、急転直下、森監督の留任が決まり、結果として加茂さんは「屋根に上がってハシゴを外される」という形になってしまった。私が会いにいったのは、そうなる前のことだっただろうか、それとも「ハシゴを外された」後だっただろうか―。

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