■韓国に「1勝もできなかった」時代
このため、日本のサッカー界にとってはこの大会での勝利が大きな目標となり、1927年の上海大会でフィリピンに勝って国際試合での初勝利を記録。1930年の東京大会ではフィリピンに勝利し、中国と引き分けて、「同位優勝」という形ではあったが、初の国際大会での優勝を経験した。
極東選手権は日本が中国大陸東北部に樹立した傀儡国家「満洲国」の参加問題などで、1934年大会を最後に消滅。その後、日本のサッカー界の目標はオリンピックとなり、第2次世界大戦後も、やはりオリンピックやアジア競技大会が日本サッカーの目標だった。
しかし、1936年のベルリン・オリンピックではヨーロッパの強豪スウェーデンを破るまで強化が進んだ日本サッカーも、第2次世界大戦で強化・育成が中断したことで戦後はすっかり弱体化。1960年代の東京、メキシコの2つのオリンピックでは活躍したものの、その後はアジア予選の壁を突破できず、オリンピックにもワールドカップにも出場できない時代が続いた。
とくに韓国相手には、1959年のローマ・オリンピック予選で勝利して以降(予選は1勝1敗で敗退)、1960年代には1勝もできなくなってしまった。