■スペイン「2強」からのオファー

 1950年夏、「ハンガリア」はスペインに飛び、いくつかの親善試合をこなす。そして、このときのプレーに目をつけたレアル・マドリードとFCバルセロナの両クラブからオファーを受ける。レアルが有利かとみられていたのだが、最終的に契約にこぎつけたのはFCバルセロナだった。

 バルセロナの役員が当時のスペインのフランコ政権内にコネを持っており、そのコネがクバラ説得に使われたという。フランコ政権は強烈な「反共政策」をとっており、ソ連の「衛星国」となったハンガリーからの亡命者クバラを政権のプロパガンダとして利用しようとしたと言われている。そのため、クバラのスペイン国籍取得もスムーズに進んだ。

 半年間は「公式戦出場停止」だった。その間の親善試合でゴールを量産し、クバラはFCバルセロナでの地位を不動のものとする。そして、ここでようやく「安住の地」を得るのである。1951年から1961年まで、10年半でクバラはスペイン・リーグで186試合に出場して131ゴールを記録、1953年にはスペイン代表にもデビューし、1961年まで19試合に出場した。ただ残念ながら、ワールドカップ出場の機会には恵まれなかった。35歳で迎えた1962年チリ大会にはメンバーに選ばれていたのだが、ケガで辞退を余儀なくされたのである。

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