大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第159回「W杯出場選手の半分がブラジル人になる?」(3)加速する「国籍変更選手」による代表チーム強化、世界サッカーの勢力図が「今後10年」で変わるの画像
FIFAが掲げる条件をクリアすれば、ネイマールが日本代表になる可能性も⁉ 撮影/原壮史(Sony α‐1使用)

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、「意外に長~い」その歴史。

■運命の「分岐点」と亡命者クラブ

 ラズロ(ラディスラオ)・クバラは「プロ・パトリア」でプレーしていたころ、セリエAの圧倒的チャンピオンだった「ACトリノ」から親善試合でゲストとしてプレーしてくれないかと誘いを受けた。彼はこころよく引き受けた。だが直前になって息子が病気にかかり、参加をキャンセルしなければならなくなった。彼の運命の大きな分岐点だった。

 1949年5月3日、ACトリノは、キャプテンのバレンチノ・マッツォーラの依頼でポルトガルの名門ベンフィカとの親善試合を行った。ベンフィカのキャプテン、フランシスコ・フェレイラへの感謝試合だった。クバラはこの試合に「ゲスト」として招待されていたのだ。ところが、試合を終えた翌5月4日、ACトリノの選手や役員を乗せた航空機がトリノ市郊外の丘に激突、搭乗していた31人全員が亡くなった。「スペルガの悲劇」と呼ばれる事故である。クバラのキャリアは奇妙なめぐり合わせでできている。

 この年の暮れ、ハンガリーサッカー協会は国際サッカー連盟にクバラの資格停止を告発した。バシャシュとの契約違反、無許可出国、そして兵役不履行などの「罪状」に、FIFAの裁定は「1年間の公式戦出場停止」だった。クバラはプロ・パトリアを離れ、1950年1月、東欧諸国からの亡命者を集めて「ハンガリア」というクラブをつくって活動を始める。

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