■アジアの「サッカー界」に君臨

 中国は、実は歴史的には日本サッカーにとっての大きな「壁」だった。

 19世紀に、中国は西欧列強の支配下に置かれるようになった。中国(清朝)と英国が戦ったアヘン戦争後に締結された南京条約で、清国は香港島を英国に割譲。香港は英国の直轄植民地となり、多くの英国人が住みつき、また多くの中国人が富を求めて集まってきた。

 そうした中国人の若者が英国人から直接学んだことで、香港はアジアのサッカー界に君臨するようになる。また、西欧列強の「租界」(外国が司法権を持つ地域)が置かれた上海などでも、サッカーが盛んになっていった。

 だから、20世紀初頭の中国はアジアの最強国だったのだ。

 日本のサッカーが初めて国際大会に参加したのは、1917年(大正6年)に東京・芝浦で行われた第3回極東選手権大会だった。代表として参加した東京高等師範学校はこの大会で中国に0対5、フィリピンに2対15と惨敗を喫してしまう。中国を代表して出場したのは、香港の南華体育会(サウスチャイナ)だった。

 1921年に大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)が発足し、強化に手を付けるが、その目標が極東選手権での勝利だった。

 初めてフィリピンに勝利したのが、1927年の上海大会。そして、中国と引き分けて同率優勝を成し遂げたのが、1930年に東京で開かれた大会だった。

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