■北朝鮮の「出場辞退」以上の大きな衝撃
「運営能力」を買われた日本だったが、順調に開催にこぎつけたわけではなかった。1979年2月23日に組分け抽選が行われ、試合日程が決まった。会場は東京の国立競技場をメインとし、関東では他に横浜の三ツ沢球技場と大宮の大宮サッカー場、さらに神戸の神戸中央球技場、広島の広島県営競技場の5スタジアム。
A組(日本、スペイン、メキシコ、アルジェリア)は国立と三ツ沢で、B組(ポーランド、ユーゴスラビア、アルゼンチン、北朝鮮)は三ツ沢と大宮、そしてC組(カナダ、ポルトガル、パラグアイ、韓国)は神戸、D組(ソ連、ハンガリー、ウルグアイ、ギニア)は広島で試合をすることになった。
第一の事件は、北朝鮮の出場辞退だった。抽選会の翌日、2月24日にFIFAに電報で通知されたが、FIFAは代替出場国をインドネシアと決め、3月15日になって日本に通告した。
それ以上に大きな衝撃は広島の「開催返上」だった。FIFAの求める「シャワー付き更衣室4室、シャワー付き審判室」を整備することができないため、大会まで5か月を切った3月29日に返上を決めたのだ。しかし、この時点で代替開催地を求めることは難しく、結局残る4スタジアムで全試合を開催することになった。A組は全試合国立、B組は全試合大宮、C組は予定どおり全試合神戸、そしてD組は全試合三ツ沢で開催することになったのだ。