北朝鮮の「出場辞退」と広島の「開催返上」を吹き飛ばしたMVPと得点王のコンビプレー【日本サッカー界に革命を起こした「1979年のスーパースター」と日本ユース代表】(3)の画像
何かと因縁のある北朝鮮。3月のワールドカップ2次予選では初戦1-0で辛勝、2戦目は不戦勝に。撮影/原悦生(SONYα1使用)

 スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイケル・ジョーダンしかり、ゴルフのタイガー・ウッズしかり、ベースボールの大谷翔平しかり…。現在、日本の人々がサッカーに親しんでいるのは、あるスーパースターと深い関係があると指摘するのは、サッカージャーナリストの大住良之だ。その見つめる先は45年前、1979年に日本で開かれた世界大会「ワールドユース」。この大会で躍動した「神の子」と、彼のプレーに魅了された人々、そして、各国の強豪と戦った日本ユース代表が日本サッカー界にもたらしたものとは?

■日本協会は「ノー」という余裕もなし

 ジョアン・アベランジェは、コカコーラとの契約がまとまると、すぐにスイス人ビジネスマンだったゼップ・ブラッターを雇用、「テクニカルディレクター」としてワールドユースの実質的な責任者とした。ブラッターはチュニジアでの第1回大会が終わるとすぐに日本へ飛び、日本のメディアに「次回は日本が有力」と語って日本協会を慌てさせた。

 日本協会の懸念はもっぱら「お金」だった。財布はカラである。赤字開催などできない状態だった。しかし、このときの話し合いで、ブラッターは「金銭的な負担はかけない」と約束したようだ。出場チームの航空運賃はすべてFIFAが負担する。日本には、チームの宿泊費、国内移動費、大会運営費を負担してもらわなければならないが、日本各地のコカコーラ・ボトリングが協力してくれるだろう…。

 なんとも情けない話だが、第2回ワールドユースの日本開催はFIFA側ですでに規定路線で、日本協会は「ノー」という余裕もなく9月29日に正式「立候補」を決定、12月のFIFA視察団の視察を受け、翌1978年1月13日、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催されたFIFA理事会で日本開催が正式に決定した。

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