■「アジアの地」でのW杯予選の始まりは…
さて、ワールドカップが1930年(昭和5年)のウルグアイ大会に起源を持つことは、多くの人が知っているに違いない。この大会は出場チームを集めるのに苦労し、16チームでの大会実施を目指したものの、最終的に13チームで開催された。当然、予選はなかった。
第1回大会の成功を受けて第2回イタリア大会には32チームがエントリー。ここで初めて予選が行われ、現在は「アジア」とされている地域からの参加があった。パレスチナである。
しかし現在のパレスチナとは違う。正確には「イギリス委任統治領パレスチナ」。当時は、現在のイスラエルとパレスチナを合わせた地域を版図としていた。第一次世界大戦の結果を受けて創設された地域で、目的は「ユダヤ人のための郷土」をつくることだった。第二次世界大戦後にイスラエルとパレスチナに分割され、現在の形になったが、1934年ワールドカップ当時の「パレスチナ」は現在のイスラエルの前身であり、サッカーが盛んになっていたドイツなど欧州から移住したユダヤ人によるチームだった。
3チームがエントリーした「アフリカ・アジア予選」では、トルコ(アジアに分類されていた)が棄権、パレスチナはエジプトとホームアンドアウェーで戦い、1-7、1-4で連敗して出場権を逃した。1934年4月6日にエルサレムで行われた第2戦が、「アジアの地」でのワールドカップ予選の始まりである。

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