サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、0から最多7まで増えたもの。
■フルに利用した日本が「メダル獲得」
このワールドカップ予選で交代が可能になったのは、1953年のルール改正によって、「負傷者はいつでも交代できる」ということになっていたからだった。ただし、交代可とするには、両チームの試合前の合意が必要だった。また大会規定で交代を不可とすることもできた。ワールドカップでは、1966年大会まで交代はできなかった。
日本最初の全国リーグ、日本サッカーリーグがスタートしたのは1965年。当時の規定では、「交代は後半戦開始までに1人認める。ただしGKが負傷した場合にはいつでも交代することができる」とされていた。この規定により、多くの交代はハーフタイムに行われた。交代第1号は、1965年6月6日、開幕節に東京の駒沢競技場で行われた日立本社(柏レイソルの前身)×名古屋相互銀行の試合。名相銀のFW前川紀雄に代わって池谷富雄が出場した。
1966年、ワールドカップ・イングランド大会で3連覇を目指すブラジルのペレがひどいファウルを受けて負傷、交代もできずに敗退したことで、ようやくIFABも考えを変える。1967年のルール改正では「親善試合では理由を問わずに2人の交代ができる。また公式戦でも、大会ルールで2人の交代を認めることができる」となった。
1968年のメキシコ・オリンピックでは、「交代できる」ことをフルに利用した日本代表が銅メダルの歴史的偉業を成し遂げた。メキシコとの3位決定戦以外の5試合で、日本は選手交代を使い、その利を生かした。とくにグループリーグ突破に重要な意味を持っていた第2戦、ブラジル戦での交代は水際立っていた。
1点のビハインドで迎えたハーフタイムにFW桑原楽之に代えてMFに宮本征勝を投入、前半はMFでプレーしていた釜本邦茂をセンターフォワードに上げる。そして、終了9分前にはドリブル突破を得意とする右ウイングの松本育夫に代えて、独特の得点感覚を持つFW渡辺正を入れる。そして2分後、左サイドを突破したFW杉山隆一のクロスをファーポストに走った釜本がブラジルのDF3人にヘディングで競り勝って折り返したところを、ゴール前に飛び込んだ渡辺が体を倒しながら右足で合わせ、ゴールに突き刺したのだ。