後藤健生の「蹴球放浪記」第204回「中国・広州で14世紀風スタジアム発見」の巻(1)川崎フロンターレが「農村」でACLの画像
2017年ACL、広州恒大対川崎フロンターレ(川崎前鋒)の入場券。提供/後藤健生

 日本サッカー界も、歴史を重ねてきた。だが、それ以上に長いのが、中国の歴史である。紀元前から続く歴史だ。蹴球放浪家・後藤健生にとって当然、中国もフィールドワークの一環である。まるで14世紀に建てられたようなスタジアムが、中国・広州にあった。

■尊王攘夷は「2500年前」に生まれた

「尊王攘夷」という言葉は、皆さんご存じのことでしょう。

 幕末維新期に開国に反対する討幕派の志士たちが唱えたスローガンです。「開国を進める徳川幕府を倒して天皇中心の政治を行い、欧米の列強を排除せよ」という意味ですが、実現性には「?」が付きますよね。

 この「尊王攘夷」という言葉、実は2500年も前の中国で作られた古い言葉なのです。

 紀元前1046年に「殷」王朝を倒して「周」という統一王朝が成立しましたが、紀元前9世紀頃から次第に衰退し、紀元前3世紀には「秦」によって滅ぼされてしまいます。初めて“皇帝”を名乗った始皇帝が始めた「秦」王朝です。

「秦」が中国を統一する前は「春秋戦国時代」と呼ばれ、「燕」とか「趙」とか「魏」とか「楚」といった諸侯国が互いに覇を競っていました。「周」王朝は存続していましたが、実権は失っており、徳川時代の天皇のような存在になっていました。

 そんな時代に「諸侯国はもっと『周』王を大切にして、一致して『夷』つまり野蛮人の進出を阻もう」というのが「尊王攘夷」の本来の意味でした。

 ところで、ここで言う「夷」とは何者なのか? 「夷」は中国周辺の異民族のことですが、とくに脅威だったのは長江の南の「呉」とか「越」と呼ばれた南方民族でした。今では中国の中心ともいえる江南地域ですが、春秋戦国時代には異民族と見なされていたのです。

 その「夷」よりもさらに南にあったのが「南越」で、「秦」の後に「漢」が中国を統一してもそれに従わず、中国の統一王朝にとっては「目の上のたんこぶ」のような存在でした。

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