■戒厳令の敷かれた「軍事政権の国」の夕闇へ
当時のアルゼンチンは、前年の1976年3月のクーデターで政権を握ったホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領が支配する軍事政権の国。公式には「戒厳令」が敷かれたままで、危険な国と言われていたが、到着すると、町はとても落ち着いているように見えた。だが、東京はそろそろ夏の気配が濃くなる時期。秋が深まり、街路樹が色づき、人々がコートを着て歩いている姿は、「ああ、地球の裏側に来たんだな」という実感をわかせた。
翌日にはアルゼンチン対ポーランドがある。取材申請などの手続きは、ベースボール・マガジン社が提携しているアメリカのAP通信の東京支局からブエノスアイレス支局に依頼してあり、ホテルに荷物を置くと、すぐにAPのオフィスに向かった。APの東京支局は銀座の朝日新聞ビルの中にあったが、ブエノスアイレスでもAPは、この国最大の新聞である『La Nacion』のビルに入っていた。
東京支局から丁寧な依頼があったことで、支局長のビル・ニコルソン氏が笑顔で迎えてくれ、サッカー担当のエドゥアルド・ディバイア記者がいろいろと面倒を見てくれた。日本国内の試合なら、サッカー協会に電話しておけばいいのだが、アルゼンチンではそうはいかなかった。取材には、記者席の入場券とともに写真入りの記者証が必要なため、まず写真部に行って写真を撮り、それを持って、夕刻にアルゼンチン・サッカー協会に行った。
なぜ夕刻なのか? それは、午後5時を過ぎないと、協会が動かないからだ。もちろん、日中もスタッフはいる。しかし、各部門の責任者はすべて「ボランティア」で、他に仕事をもっているから、重要な決済などができないのだ。会長を筆頭に、各部の責任者はすべて同じだった。社会的に地位のある人が協会の役員に就いているためだった。
こうした形は南米ではごく普通で、後に取材に行くトヨタカップ出場クラブも、役員は夜にならなければクラブに来なかった。