サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、「現サッカー日本代表監督が遠い目をして語るアジアカップ優勝へのワンシーン」。
■無名の日本代表選手
1992年の「日本大会」、アジアカップも当時はいい加減で、カタール大会では出場10か国だったが、このときには8チーム、4チームずつ2組で総当たりリーグ戦を行い、両組の上位2チームで準決勝以後のノックアウトステージを行うというものとなった。
Jリーグ化、日本のサッカーのプロ化を契機に、1992年はじめ、日本サッカー協会は日本代表に初めてプロ監督、オランダ人のハンス・オフトを起用。この年の春から仕事を始めたオフト監督は、8月に中国の北京で行われた「ダイナスティカップ(東アジア選手権の前身の大会)」で日本を初優勝に導き、選手、メディア、そしてファンの間に信頼を築きつつあった。
日本代表選手・森保一は、オフトが初選出し、驚きをもって迎えられた選手だった。オフト監督はサンフレッチェ広島の前身であるマツダ時代に監督をしていたことがあり、「ボランチ」としての森保の資質を高く評価していた。しかし、日本サッカーリーグ(JSL)時代のマツダは2部降格もあり、森保がJSL1部でプレーしたのは、その最後のシーズンである1991/92だけだったこともあって、森保の名を知るファンは少なかった。