■現在とまったく異なる時代
「森保一」という名前をどう読むのか、「モリ・ホイチ」と勘違いした人も多かった(彼のニックネームである「ポイチ」も、そこから生まれている)。1992年10月、すでにJリーグ最初の公式戦である「ナビスコカップ」が始まり、24歳の森保は日本代表で欠くことのできないボランチとしてプレーしていたのだが、アジアカップのテレビ中継に出たメンバー表では、カズ(三浦知良)を除く他の選手が名字で表記されるなか、森保ひとりはなぜか「保一」とされていた。
森保監督が初めて「アジアカップ」の舞台に立ったのは、そんな時代だった。日本代表は最初はなかなか調子が出なかった。UAEと0-0、北朝鮮と1-1で引き分け、2試合を終わって2分け。勝点2で、同じく2分けのUAEと並び、得失点差でかろうじて2位にいた。しかし最終戦の相手は、このグループで間違いなく最大の強敵、それまで1勝1分けで首位に立つイランである。
2時間前に同じビッグアーチでキックオフされたUAE×北朝鮮は、2-1でUAEが勝った。現在のファンはピンとこないかもしれないが、当時の勝点は「勝利2、引き分け1」だった。北朝鮮に勝ったことでUAEは勝点を4に伸ばし、日本×イランが引き分けに終われば、日本は3引き分けで3位(イランは勝点4で首位)、敗退決定となってしまう。