■地球の反対側へと向かう

 私は『サッカー・マガジン』の編集部を退職した1982年大会の秋からこの大会の出場チーム取材を始めた。最初の年は欧州側のチームだけだったが、翌年から欧州と南米を往復するようになった。大会の公式プログラムをつくるとともに、メディア向けの素材を提供するための取材で、日本の組織委員会からの派遣であり、『サッカー・マガジン』時代やその後のフリーランス時代とはまったく違った取材形態だった。

 なにしろ「トヨタカップのオフィシャル・ジャーナリスト」なのである。ドイツ在住のカイ・サワベ・カメラマン(現在はドイツ国籍だが、当時は日本国籍だった)と現地で合流、ひとつのクラブを1週間から10日間もかけて取材し、監督やスター選手たちはもちろん、会長などクラブの首脳にも好きなようにインタビューできるというのは、ジャーナリストにとって夢のような環境だった。

 南米取材は1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会以来だから5年ぶり。ブラジル取材は6年ぶりのことだった。そしてグレミオのホームタウン、ポルトアレグレ市は、初めて訪れる町だった。

 ポルトアレグレはブラジル最南部のリオグランデドスール州の首都である。ブラジルには赤道に近いアマゾン川流域など「熱帯」もあるが、南北に4000キロもの広がりをもつ国であり、ポルトアレグレは南緯30度。「亜熱帯」を通り越して「温帯」の地域となっている。ブラジルの他地域の人びとはリオグランデドスールの人びとを「ガウショ」と呼ぶ。アルゼンチンの牧童として知られる「ガウチョ」と同じ言葉である。すなわち、ブラジルではあるが、ポルトアレグレは気候だけでなく文化や人びとの気質もアルゼンチンに近いと言える。

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