サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は思いがけない「罠」の話。
■かつての世界一決定戦
私にも政治信条はある。しかしサッカーの報道を仕事とする以上、自分自身の政治的意見を表明するのは避けることにしている。私が世間に発表する文章は、日本のサッカーの発展や、サッカーという競技がより人びとに楽しんでもらうというようなことを目的にしている。そこに政治的主張をからめたら、伝えたいことがゆがんでしまう。
だが、不覚にも、ただいちどだけ「政治利用」され、思ってもいない言葉を口から発してしまったことがある。今回はその話を書こう。
1983年、私はトヨタカップの広報関係の仕事をしていた。若いファンは知らないかもしれないが、正式名称「トヨタ・ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ」は、1980年代の日本サッカーにとって、年に1度だけ、1試合だけ、日本のサッカーファンが「世界」と直接触れられる貴重な機会だった。
1960年にリベルタドーレス杯南米クラブ選手権が始まったことを受けて、同年、欧州と南米のクラブチャンピオン間でホームアンドアウェー方式の「インターコンチネンタルカップ」がスタート。しかしルール解釈の違いなどで1970年代の半ばには欧州のクラブが出場を拒否、大会は暗礁に乗り上げていた。それを「東京での1戦制」という形で復活させたのがトヨタカップである。
1980年度(試合は1981年2月)に第1回大会が行われ、第2回大会、1981年12月にフラメンゴ(ブラジル)がジーコの圧倒的な攻撃リードでリバプール(イングランド)を破ると人気が沸騰、以後は入場券入手が難しい大会となった。そして1983年の第3回大会、南米代表となったのが、リベルタドーレス杯で初優勝を飾ったグレミオ(ブラジル)だった。