後藤健生の「蹴球放浪記」第148回「冷戦下の東ドイツを横断する」の巻(1)クライフとベッケンバウアーを見るため、まずはモスクワを目指すの画像
東ドイツのトランジット・ビザ 提供/後藤健生

 時代は変わった。かつての冷戦は雪解けしたが、ソビエト連邦からロシアとなった国は、再び対立の構図を自らつくり出している。今よりも国境を越えるのが難しかった1974年、蹴球放浪家・後藤健生はワールドカップ観戦のため、共産圏をまたにかける冒険に出かけた。

■ベルリンを壁が分断していた時代

 前回の『蹴球放浪記』ではベルリンのヘルタプラッツのことに触れました。東西ベルリンを隔てる「壁」のすぐ西側にあったスタジアムです。

 その「ベルリンの壁」が撤去されてからもう30年以上が経過したので、若い方はそれがどんなものだかご存じないかもしれません。そこで、今回は僕が東ドイツと東ベルリンを訪れて、「壁」を越えた時のお話です。

 第2次世界大戦後、アメリカとソ連は激しく対立して両国は互いに数千発もの核ミサイルを突きつけ合っていたのです。これが「冷戦」です。ヨーロッパも東西に分断されていました。

 第2次世界大戦に敗れたドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分割占領されました。西側3か国の占領地域には1949年に「ドイツ連邦共和国(略称:DBR)」が成立し、ソ連占領地域は「ドイツ民主共和国(DDR)」となりました。

 ドイツの首都ベルリンはソ連占領地域の中にあったのですが、ベルリン市自体も4か国が分割占領していました。ベルリンのソ連地区(東ベルリン)は東ドイツの首都になりましたが、西ベルリンは東ドイツの中に浮かぶ孤島のような状態になってしまったのです。

 その後、東ドイツに不満を持つ人たちが西ベルリン経由で西側に脱出し始めると、東ドイツやソ連は東西ベルリンの間にコンクリート製の「壁」を建設。ベルリン市は東西に分断されてしまいました。

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