日本のトップリーグを戦うチームの環境に抱いた疑問【森健兒さんとはどんな人物だったのか(上)】(4)の画像
前回の東京五輪をきっかけに、サッカーは日本で人気を拡大していった

 日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。

■環境を劇的に変えた東京五輪

 新三菱に入社すると、サッカー部に籍は置いたが、自分ではもう「サッカーは卒業」と思っていた。産業用エンジンを販売する営業に配属され、仕事にまい進した。週末に行われるサッカー部の活動には参加したが、出張などがあるとそれもままならなくなった。日本代表のFW二宮寛をもつ新三菱のサッカー部は関東の実業団リーグ1部に所属し、強豪のひとつだった。森の入社後も、1961(昭和36)年と1963(昭和38)年には、全日本実業団選手権で3位になったほどだった。しかしそんな強豪でも、活動は週末に限られていた。

 その状況に劇的な変化をもたらしたのが1964年の東京オリンピックだった。三菱のサッカー部からは、ともに1963(昭和38)年入社の片山洋と継谷昌三の若い2人が代表に選ばれ、それだけでなく、森が修道高校を卒業した1956(昭和31)年の春に修道中に入学し、1年浪人した後に早稲田大学の経済学部にはいって活躍を始めていた森の弟の孝慈も出場することになった。日本代表はアルゼンチンを3-2の逆転勝ちで下してベスト8に進出、所期の目標を達し、サッカーは一躍人気競技となった。

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