■1964年当時の背番号のつけ方

 1964年の東京大会では、背番号はポジション順に割り振られた。ベテランのGK保坂司が1番を付け、若いGKの横山が21番(19人の選手団だったが、なぜか21番となった)。あとはDF陣がすべて2番から9番の間に入れられ、10番以降(18番まで)がMFとFWが混在するという形だった。

 もっとも、当時の選手に向かって、「あなたはDFですか、それともMF? FW」などと聞いても、「何のこと?」と問い返されただろう。当時の日本サッカーでは、ポジションはこのような分け方ではなく、すべてのポジションに名前がついており、そのポジションに対応した背番号が決まっていた。

 すでに「4-2-4」の時代になっていたが、背番号の基本は「WMシステム」った。GKは1番、守備ラインは、「ライトフルバック(RB)2番」、「レフトフルバック(LB)3番」、「センターハーフ(センターバックのことをこう言った。略称はCH)5番」、中盤は「ライトハーフ(RH)4番」、「レフトハーフ(LH)6番」、攻撃ラインは、「ライトウイングあるいはアウトサイドライト(RW/OR)7番」、「ライトインナーあるいはインサイドライト(RI/IR)8番」、「センターフォワード(CF)9番」、「レフトインナーあるいはインサイドレフト(LI/IL)10番」、そして「レフトウイングあるいはアウトサイドレフト(LW/OL)11番」という形である。

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