■南米の「ワールドクラス」のカメラマン
父親はリカルド・アルフィエリ。1912年生まれ。息子も同じリカルドという名前で、ともに1970年代から80年代にかけてアルゼンチンの名スポーツ雑誌『エル・グラフィコ』で働き、写真のクレジットには名前の後ろに「(父)」「(息子)」などとただし書きが書かれていた。しかし私が知る限り、父親は敬愛の念を込めて「ドン・リカルド」と呼ばれ、息子のほうは「リカルド」と呼ばれるのが普通だった。
1980年代半ば、私はトヨタカップ出場の南米チームの取材のために毎年のようにアルゼンチンに行っていた。そのとき世話になったのが『エル・グラフィコ』の編集部で、編集部員たちは私を仲間のように扱い、気軽に机やタイプライターを貸してくれた。そして当時の『エル・グラフィコ』のエースカメラマンがリカルドだったのだ。
同年代(彼が1歳年上)のこともあり、私たちはすぐに友達になった。彼は青い目をした金髪の青年で、常に快活で、そして英語が得意だった。1986年のワールドカップ・メキシコ大会で、彼はディエゴ・マラドーナの見事な写真を数多く撮った。すべて見開き(2ページ全面)で使うことができる写真は、構図など「絵」として優れているだけでなく、マラドーナがもつダイナミックさ、信じ難いほどのテクニックを余すところなく表現していた。間違いなく、彼は「ワールドクラス」のスポーツカメラマンだった。