■広島のレベルを高めたドイツ人捕虜

 とくに有名なのは広島県似島(にのしま)の収容所である。

 捕虜チームは広島高等師範学校や広島県師範学校の学生たちと試合を行ったが、広島高師の主将だった田中敬幸はその後、毎週のように似島に渡ってドイツ人捕虜から技術や戦術を学んだという。これによって広島のサッカーのレベルが上がり、田中は広島一中の教師としてサッカーを指導。同校OBによる「鯉城クラブ」は1920年、21年の全日本選手権で同大会史上初の連覇を飾っている。

 当時のドイツのサッカーは、すでにスコットランドの影響を受けたパス・サッカーだったはずである。

 これも前回に触れたことだが、スコットランドのサッカーはドイツやオーストリア、ハンガリー、チェコなどに影響を与えていたのだ。

 第1次世界大戦をきっかけに、日本のサッカー界はチェコとも交流の機会を得た。

 チェコやスロバキアは第1次世界大戦前、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった。そのため、大戦が始まってオーストリアとロシアが戦争状態に入ると、チェコの軍人は祖国の独立のためにロシア軍の指揮下でオーストリアと戦うことになった。ところが、1917年にロシアで革命が起こり、革命政府はドイツやオーストリアと講和してしまうのだ。

 ロシアでは革命派と反革命派の間で内戦が始まる。チェコ軍団はサマラ(2018年ワールドカップの会場にもなった)などボルガ川沿いの街を根拠地に反革命側に立って戦っていたが、内戦は革命派の勝利に終わり、チェコの軍人たちは居場所を失ってしまう。そこで、彼らはシベリアを横断して、そこから船で北米に渡って、「チェコスロバキア」として独立した祖国に戻ることとなった。ところが、1919年の8月にその船の一部が台風で遭難して、船の修理を行うために約2か月間、神戸に滞在することになったのだ。そして、彼らは地元神戸の強豪校、神戸一中の生徒たちとサッカーの試合をしたのだ。

 当時の広島や神戸の学生たちには、そんな意識は毛頭もなかっただろうが、彼らはスコットランド源流のパス・サッカーという、世界最先端のサッカーと接触していたのである。

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