サッカーを見ていると、表面上の現象だけではなく、その根底を知りたくなる。根底を知ると、歴史を学びたくなる。サッカーを追い続けるサッカージャーナリスト・後藤健生は、深く日本サッカーの源流を追っていく。
残念ながら、海軍兵学寮(海軍士官学校)でも、工部省工学寮(工部大学校)でも、英国人教師たちが去るとフットボールの伝統は廃れてしまった。その後は、体育教育の一環として学校でフットボールがプレーされるようになり、教師を養成する師範学校や旧制中学校でフットボールが盛んになっていった。
そんな、20世紀の初めに起こったのが第1次世界大戦だった。
当時、日本は南下してくるロシアに対抗するために英国と軍事同盟条約を結んでいた。世界大戦が起こると、日本はこの日英同盟を口実にドイツが中国山東省の青島(チンタオ)周辺に持っていた膠州湾租借地や南洋諸島を攻略。ドイツ兵多数を捕虜にした。
日本政府は、日本が近代的な文明国であることを示すために、戦時国際法を順守してドイツ人捕虜を丁重に扱った。千葉県習志野や徳島県坂東など、各地に捕虜収容所が設けられた。そして、ドイツ人捕虜たちは地元の住民とも交流し、西洋音楽からパンの作り方まで様々な情報をもたらした。日本で初めてベートーベンの「第九」を演奏したのがドイツ人捕虜だったことも知られている。
そして、収容所にはグラウンドが整備され、陸上競技や体操、サッカーなどのスポーツも行われ、地元の中学校のチームとも試合が行われた。