後藤健生の「蹴球放浪記」連載第75回「19歳の青年が50年後を想像する」の巻 (2) 創立100周年を迎えた日本サッカー協会の画像
1971年セッツバル対日本代表戦のJUBILEE入場券 提供/後藤健生
【画像】超貴重な「50年前の入場券」主催者は「日本蹴球協会」
時間は流れる。だが、たとえ遠い日のことであっても、鮮明に記憶に焼きつけられたシーンは色褪せず、昨日のように思い出される。サッカージャーナリスト・後藤健生が19歳だった1971年、まだ「日本蹴球協会」だった日本サッカー協会はひとつの節目を迎えた。日本サッカー史の貴重な1ページをご覧いただきたい。
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■ミュンヘン・オリンピック出場に失敗して以降暗黒期を迎えた

 協会創立50周年の9月10日が過ぎて、最初のビッグイベントは9月末から10月にかけて、韓国ソウルで行われたミュンヘン・オリンピックのアジア予選でした。日本のほか、開催国の韓国、マレーシア、フィリピン、台湾の5か国が総当たりで戦います。日本にとっては最後の韓国戦が決戦と誰もが思っていました。東京で行われたメキシコ・オリンピック予選(1967年10月)では、日本と韓国は3対3の引き分けに終わって、得失点差で日本が出場権を得ています。

 ところが、9月23日の開幕戦で日本はマレーシアに敗れてしまいます。

 当時、生中継はラジオだけで、テレビは翌日に録画で放映されました。もちろん、衛星中継は可能だったはずなのですが、まだ衛星中継は費用がかかったので、「たかがサッカーの試合」に衛星中継などできなかったのでしょう。だから、ビデオテープを空輸して翌日に放送するのです。

 で、ラジオの中継を聞いていたら、後半の立ち上がりに相手のロングキックが雨でぬかるんだピッチで不規則バウンドしてGKの頭上を越えてゴールに入り、その後も2点を失った日本は0対3で敗れたのです。さらに、翌々日の試合でマレーシアは韓国も破って予選突破をほぼ確実にして、日韓戦は単なる消化試合になってしまいました。そして、日韓戦では19歳の永井良和が1点を返しましたが、1対2で韓国にも敗れ、ミュンヘン・オリンピック出場の夢は潰えてしまいました。そして、その後、20年以上、日本はワールドカップにもオリンピックにも出場できない暗黒時代を迎えることになるのです。

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