■「中国こそがサッカーの母国」なのか?

 近代スポーツとしてのサッカーの誕生以前、すなわち中世から英国各地で行われていた「フットボール」では、最初からポストで区切られたゴールがあったわけではない。「村対村」で何百人もが参加し、ボールを投げたりけったりしながら相手村に攻め込む、半ば「暴動」のようなイベントだったフットボール。そのゴールは、相手村にある砦の門だったり、相手村のシンボルである教会であったりした。

 ポストは17世紀にはその最初のものが見られるというが、19世紀を迎えるまでは、特別なポストを立てるより、元来そこにある動かないもの、家や巨木などがその代わりになり、ゴールの幅も数メートル程度のものばかりでなく、ときには数キロ(!)に及ぶものもあったらしい。

 19世紀のはじめに2本の棒を地面に突き刺してゴールにするという例が見られるようになる。そこからサッカーが誕生するまで約半世紀の間に、パブリックスクール(私立中高等学校)の校庭で教育の一環として盛んに行われるようになり、人数やピッチの広さが限定され、ポストで区切られた明確な「ゴール」が設けられるようになったのである。

 ただ、「世界最古のゴールポスト」としては、まったく別の歴史も主張されている。中国では紀元前から2チームで1個のボールを争って相手ゴールに入れる競技が行われていたという記録があり、2004年、FIFA会長となっていたブラッターは、アジアカップの決勝戦に合わせて北京を訪れた際、「中国こそ、サッカーの母国である」と持ち上げた。

 ブラッターの真意は、急速に経済成長しつつある中国をFIFAにとっての21世紀の最大のマーケットと考え(その予測は正しかった)、その歓心を得ようしたことにあった。そこでこんな「リップサービス」をしたらしい。そしてそのとき、紀元前32年、前漢の成帝の時代に、2本の竹の棒を地面に突き刺し、その間に絹の薄い布を張ってゴールとしていたという話を持ち出したのである。

※第2回につづく
PHOTO GALLERY 【画像】94年W杯のロベルト・バッジョの決勝シーンほかゴールそれぞれにストーリーがある
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