■バイエルン州内から集ったバイエルン・ミュンヘン
この原稿の冒頭でネルトリンゲンの話を書いた。僕が、この美しい小さな街の名前を記憶していたのは、やはり47年前に訪れた時のガイドさんの「ゲルト・ミュラーが生まれた街です」という誇らしげな口調が印象的だったからだ。
あのガイドの女性を含め、西ドイツ人、いやバイエルン州民にとってはバイエルン・ミュンヘンという地元のクラブを主体とした西ドイツがワールドチャンピオンになったという事実、そしてその主力となった選手が自分たちの同胞だったことは大きな誇りだったのだろう。
ゲルト・ミュラーだけではない。当時バイエルン・ミュンヘンに所属していた選手の多くはバイエルン人だった。
主将のベッケンバウアーはミュンヘン市内ギージング地区の生まれだったし、シュヴァルツェンベックもミュンヘン生まれ。そして、GKのゼップ・マイヤーの故郷はバイエルン州東部、チェコ共和国(当時はチェコスロバキア)との国境にも近いメッテンであり、オランダとの決勝戦で尻込みする同僚たちを差し置いてPKを蹴って同点ゴールを決めたブライトナーはバイエルン州南部オーストリアに近い、コルベルモール生まれ。つまり、当時のバイエルン・ミュンヘンはバイエルン州内の優秀な若手選手を集めて作ったチームだったのだ。
今ではヨーロッパのビッグクラブはどこも多国籍軍団である。それでも、ドイツ・ブンデスリーガは他のリーグに比べれば自国国籍保有者が多く、バイエルン・ミュンヘンでもGKのマヌエル・ノイアーをはじめ、トーマス・ミュラーやヨシュア・キミッヒ、セルジュ・ミャブリ、レオン・ゴレツカなどドイツ国籍を持つ選手が半数を占める。それでも、ゲルト・ミュラーと比較されるレバンドフスキはポーランド人だし、ドイツ国籍を持つ選手でもバイエルン州出身は同州南部ヴァイルハイム出身のトーマス・ミュラーだけだ。
ゲルト・ミュラーが活躍した当時から約50年ほどの間に、サッカーというスポーツは大きく変わった。当時は、バイエルン・ミュンヘンと同じようにサッカークラブというのは地元出身の選手が主体で運営されていたのだ。
最近でもバイエルン・ミュンヘンは「ブンデスリーガ内のライバルチームから主力選手を引き抜いて強化している」とよく言われるが、ゲルト・ミュラーの時代にも同じようなことが言われていた。つまり「バイエルン・ミュンヘンは自らのクラブで育てた選手だけでなく、州内各地のクラブから優れた選手を引き抜いて強化している」という批判だった。
「ゲルト・ミュラー死去」というニュースからは、実にさまざまな記憶が蘇ってきた。最後に、不世出のストライカーのご冥福を心から祈りたい。