■「ジョホールバルの歓喜」後のイランの死闘

 その制度の適用の最初が、1965年の11月に行われた「欧州カップウィナーズ・カップ」の2回戦、デュクラ・プラハ(チェコスロバキア)とホンベド・ブダペスト(ハンガリー)の対戦だった。プラハの初戦は2-3、ブダペストでは1-2と、ともにアウェーチームが勝った。しかしアウェーで3点を取っていたホンベドが、第2戦の90分間終了時点で、延長戦もプレーオフもコイントスもなく、新制度により、準々決勝の権利を与えられたのである。以後、欧州ではこの方式が定着した。

 そしてやがて、他の地域でも、そしてワールドカップ予選など国際サッカー連盟(FIFA)主催の大会でも採用されるようになる。

 1998年フランス・ワールドカップへの出場権最後の1座をかけたアジア-オセアニアのプレーオフは非常に印象的だった。「出場枠0.5」で、地域予選を勝ち抜いても他地域とのプレーオフで勝たなければ出場権が得られないオセアニアの代表はオーストラリア。そしてアジアの代表は、マレーシアのジョホールバルで行われたアジアの「第3代表決定戦」で敗れたばかりのイラン。試合は「ジョホールバル」のわずか6日後、11月22日にイランのテヘランで、そして1週間後の11月29日にオーストラリアのメルボルンで行われた。

 イランは、「ジョホールバル」の前から疲労困憊の状態にあった。11月12日にグループ2位が確定したのを見届けてから14日未明にテヘランをたち、乗り継ぎ便の遅れなどもあってジョホールバルに到着したのは14日深夜。16日に日本と延長戦まで戦ってPK戦入り直前で岡野雅行に「ゴールデンゴール」を許して敗れ、翌日テヘランに戻った。

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