3月25日に行われる日本対韓国の親善試合。日本にとって特別な思い入れのある韓国との一戦は、多くの注目と期待を集めている。サッカージャーナリストの大住良之氏と後藤健生氏の2人が、実に54年間にわたる日韓戦観戦の蓄積から、多彩な角度の議論を戦わせる!
■「93年が転換期だったね」
―日韓にあった圧倒的な差が徐々に縮まっていく、エポックメイキングがあるとしたら、どの時点でしょうか?
後藤「日本にプロリーグができて、ハンス・オフトが監督になってからでしょ」
―やはり93年ですか?
大住「85年の試合は、たしかに力の差があって、韓国は勝つのが難しい相手だったけど。けどそれまでの、70年代までの日韓の試合とはずいぶん違った試合のような気はした。日本代表の中に、これから良くなるんじゃないか、という希望があった」
(※1985年10月26日の国立競技場、11月3日にソウルで行われた1986年メキシコW杯の最終予選。国立では1対2、ソウルでは0対1で日本は敗戦。日本の国立での得点は木村和司のフリーキックによるもの)
後藤「日本がハッキリというか、間違いなく変わったのは、1980年12月のスペインワールドカップ予選。あの時に、ハタチ過ぎくらいの若い選手がいっぱいいて、川淵三郎が監督になって。中盤は風間八宏がいて、戸塚哲也がいて、木村和司がいて。都並敏史がいて、そういうチームだったよね」
大住「韓国にはいないサッカーのタレントが育ってきたんだよね。まだ韓国のパワーとスピードを破るほどには成長していなかったんだけど、そういう選手がもっと増えて、良くなれば、日本のサッカーはやがて韓国に対抗できるのではないか。そんな風に感じさせたのは、やっぱり85年だったと思うけどね」
後藤「70年代までっていうのは、明らかに日本のほうが下手だっていう前提で、走って、頑張って、なんとかするしかなかった」
大住「釜本ひとりなんだよね、あの頃は」
後藤「そうそう」
大住「実際に釜本が点を取れば、引き分けたり、きわどい勝負ができたんだよ。釜本がいなくなれば、韓国は日本なんて怖くなかっただろうし。釜本だけを韓国は怖がっていたよね」
後藤「あの当時の釜本ならどんな相手でも怖がるよね、ヨーロッパのどんな相手だとしても。ワールドクラスのストライカーだった。だから釜本が当時、もしヨーロッパのプロに行くつもりになっていたら、どこの国の、どんなチームだってエースになっていたでしょ」
大住「ブンデスリーガで得点王になってMVPになってたかもしれない」
大住「70年代は釜本ひとりだったんだけど、80年代に入って、小柄だけど、韓国の選手にないものを日本の選手が持った。そういうサッカーが出来るようになって、希望が持てたんだよね。たしかに負けたんだけどさ」