■「香港人も日本を応援してくれたよ」
後藤「ぼくはスペインワールドカップ予選を香港に見に行った数少ない日本人のうちのひとりなんだけど、日本が公式戦でアジアの代表チームを相手に、ずっとボールをキープして、日本がパスを回しはじめると北朝鮮も中国も、日本のパス回しについていけなくて、ボールが取れなかったわけだよ。
香港人、つまり中国の人は日本が嫌いなわけだよね。はじめは中国を応援しているんだけど、そのうち日本を応援しちゃうわけだよ。香港人好みの、パスを回すクネクネとしたサッカーをするわけだから。
フリーキックの場面で木村和司がボールをセットするだけで、うわーって大歓声が上がるわけだよね。だけど、結局は点が取れなくて、その予選も負けちゃうんだけどさ。あの頃から、これならいつかは、って思ったんだよね」
大住「その世代の最後は、85年のワールドカップ予選だったよね。行きつくところが、あのチームだった」
―完成形という事ですか?
大住「そう。それで結局勝てなかったから、そのあとに少しフラフラとするわけだけど」
後藤「その後は、木村和司もちょっとパフォーマンスが落ちましたね」
大住「その後は、守備固めしてみたり、3バックにしたり、そういう難しい時代を経て、オフトの時代に、日本の良さを出したサッカーになった」
後藤「70年代から80年代になると、選手は上手くなってくるんだけど、勝手にやっていた。それがオフトが来たことで戦術ができて、ポジションごとにあれをしなさい、これをしなさいっていうのをきちっとやって急に強くなって。そして、オフトが就任した92年夏のダイナスティカップで優勝しちゃうんだよね。
それで、広島アジアカップも優勝でしょ。そこで10年間溜まっていたものが、うわっと来たわけ。もしオフトが来た時に、日本の選手が70年代のように下手だったらどうしようもなかったけど。上手い選手がそこそこいたんだけど、チームとして上手くいっていなかった状況に、オフトが来て細かいことを言って、そこにラモス瑠偉っていうちょっと毛色の変わった選手がいた。それが良かったんだよね」
―そして93年10月、ドーハで韓国相手のW杯予選35年ぶりの勝利がくると。
(※1993年10月25日、カタールのドーハで集中開催された1994年アメリカW杯最終予選の日本対韓国戦。59分に三浦知良が決めたゴールで1対0で日本が勝利)
後藤「そう。そして、ぼくが日韓戦の2番目のベストゲームはどれを選びますかって言われたら、ドーハの試合を選ぶ。勝ったという結果もそうだけど、勝ち方が完璧だったよね、あの試合は。韓国相手にこんな勝ち方ができるんだって思った。
あまりに嬉しくて泣いちゃったもん。1回きりだよ、観戦して泣いたのは」
大住「ぼくも後藤さんと同じ。あの時は本当に僅差だったけど、勝つべくして勝った試合だったんだよね。韓国に対してあそこまでやれて凄いなって、ぼくも目を潤ませていたら、誰か若い記者がさ、こんな試合で泣いてたらワールドカップなんて行けねえよ、って言ってたの」