■「1980年代は転換期だったんだよ」
―80年の日本代表が良くなり始めた理由は、監督だった川淵三郎氏の影響が大きいんですよね?
後藤「ああいった若手に思い切って舵を切れたのは川淵さんだったからだろうね」
大住「その前に、渡辺正さんを監督にしたんだよね。渡辺さんが日本代表のイメージをまったく新しいものに変えた。その次に森孝慈さんが監督をする予定だったんだけど、まだドイツに留学していた。1980年12月のスペイン・ワールドカップ予選の時には帰ってきて、コーチとして参加したんだよね。いきなりワールドカップ予選で監督にしたら責任を取らなくちゃいけなくなるから、だから予選では自分がやろうと川淵さんは思ったんだね」」
後藤「実際の指導には、コーチだった森さんも携わっていたんだよね」
大住「それで、その時に四の五の言ってもしょうがないから、数年後のチームを作ろうということで、ハタチそこそこの若手をたくさん入れて」
後藤「同じ1980年の2月か3月にモスクワオリンピック予選があって、下村幸男さんが監督で。そこでは韓国とマレーシアとやって3位になっちゃうわけだけど。それが日本代表の古い時代の最後だろうね。80年の終わりのスペイン・ワールドカップ予選で日本代表がガラリと変わったんだよ。
ここが日本代表の歴史の中で、一番変わった1年間だろうね」
―1980年がエポックメイキングだったんですね。
後藤「そう、誰も知らないけどね。テレビ中継はもちろんなかったし、新聞ではベタ記事で結果しか出ていない時代だから。香港にはサッカーマガジンからカメラマンの今井さんが来て、写真と記事の両方をやっていたしね。モスクワオリンピック予選は千野、今井の両氏がいました。飛行機に乗った時に後ろからサッカーの話題が聞こえて、振り向いたら二人がいたからね。40年も前の話だよ」
―大住さんが先ほどおっしゃった85年、日本はすごく盛り上がったわけですよね?
大住「そうですね。韓国に勝てばワールドカップに行けるかも、って気が付いて、みんな驚いてた」
後藤「その前に1984年にロサンゼルスオリンピックの予選をやって、結局4戦全敗で帰ってきたわけじゃない。そしたら、翌年のワールドカップ予選では一次予選で北朝鮮に勝って。一次予選で中国が負けちゃったので、二次予選は香港とやったとか、いろいろと幸運もあって最終予選まで行っちゃった」
大住「アジアを東西で分けてやったから、西アジアのチームと対戦せずに済んだ。すごいチャンスだったんだよ」
後藤「しかもあの1次予選では実は韓国もマレーシアに負けそうだった。あそこで韓国が負けていたら、日本は86年のメキシコワールドカップに出られていたかもしれない」
大住「初戦、アルゼンチンだよね」
後藤「すごいよな」
―85年、国立競技場の日韓戦は、木村和司の伝説のフリーキックの試合ですよね? あの時に日本が勝っていれば、こんなに長く待つ必要はなかった。