後藤健生の「蹴球放浪記」連載第49回「3.11東京都内放浪記」の巻の画像
PUMA CUP 2011のADカード 提供:後藤健生

東日本大震災が起こった瞬間も、ベテラン・サッカージャーナリストは試合会場の椅子に座っていた。場所はサッカー場ではなくフットサル会場の代々木第一体育館。この連載をお読みの方ならご存じの通り、数々の困難をサッカー観戦への情熱と冷静さを武器に乗り越えてきたベテランは、大災害の日もゲームの行く末を見届けると、いつものように(!)バスに乗り込んで帰宅の途に就いたのだった。

■体育館が大きく揺れた

 2011年3月11日、僕は東京の国立代々木競技場第一体育館で「プーマカップ第16回全日本フットサル選手権大会」の準々決勝を観戦していました。

 2007年に初めての全国リーグ「Fリーグ」が開幕し、フットサルは競技性を高めて発展している時期で人気も高まり、この日も1万856人という今では考えられないほど多くの観客がスタンドを埋めていました。

 準々決勝の第1試合ではバルドラール浦安がバサジィ大分を2対1で破り、12時45分開始の第2試合では府中アスレティックFCがデウソン神戸を8対3で下しました。フットサルの試合というのは、ハーフタイムを含めて1時間40分から45分くらいで終了しますから、試合が終わったのは午後2時30分前後だったはずです。

 すぐに、15時キックオフ予定の第3試合に出場する湘南ベルマーレと岩手県の(!)ステラミーゴいわて花巻の選手たちがコート上に姿を現して準備を進めていました。

 その時(14時46分)でした。突然、体育館が大きく揺れ始めはじめたのです。揺れの周期が長く、しかも時間が経過しても一向に揺れが収まりません。ただの地震ではないということはすぐに分かりました。

 体育館の天井にぶら下がっている大型音響装置が大きく揺れています。選手たちはもう避難していますが、「あれが落下してきたら凄いだろうな」と僕はそんなことを考えていた記憶があります。

 この体育館は丹下健三氏の設計で、1964年の東京オリンピックのために建設されたものです。1964年の大会では水泳会場となり、その後アイススケートリンクとしても使われました。

 体育館は2本の主柱(マスト)からワイヤーで屋根を吊り下げる構造となっています。油圧ダンパーで屋根の揺れを抑えることができるのだともいいます。そう、あのワイヤーなら大きな地震でもまず切れることはないでしょう。それに、万一屋根が落ちてきたとしても、一般のビルとは違って屋根と床の間には空間ができるはずですから、命を失うことはないでしょう……。

 慌てて出口に向かう人も多かったようですが、僕はそんなことを考えて観客席でじっと座っていました。

 長い揺れがようやく収まりました。しばらくして、場内アナウンスで出口前で待機するようにという指示があったので、僕はJR山手線の原宿駅に近い出口の前でしばらく待機していました。その頃、ようやく震源は東北地方だったらしいという情報が伝わってきました。

 当然のことですが、第3試合以降は中止となり、結局、この大会は準々決勝の途中で打ち切りとなりました(この大会が中止になったのは、この年と2020年の2回だけです)。

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