後藤健生の「蹴球放浪記」連載第48回「ミャンマーへの思い:祈りに包まれたスタジアム」の巻の画像
AFC U-19選手権のADカード 提供:後藤健生
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残念なお知らせです。今回は、世界の美酒やグルメの話題はありません。美女もひとりも出てきません。あるのはミャンマーの人々とサッカー界への、連帯の意思の表明です。

■日本サッカーの源流のひとつ

 去る2月1日にミャンマーでクーデターが起こり、ミンアウンフライン総司令官率いる軍部が権力を掌握しました。軍部は昨年10月の総選挙で圧勝した国民民主連盟(NLD)のリーダーであるアウンサンスーチー国家顧問やウィンミン大統領を拘束し、軍事政権復活に反対する市民に対する弾圧を始め、3月3日にはなんと38人の市民が殺害されたといいます。

 非武装の自国民に対して銃口を向けるような軍は、完全に正統性を失っているとしか言えません。

 日本代表は3月25日のカタール・ワールドカップ・アジア予選でミャンマーと対戦することになっていましたが、試合は延期となりました。延期の理由は明らかにされていませんが、この軍事クーデターの影響であることは間違いないでしょう。

 ところで、日本サッカー協会は今年で創設100周年を迎えますが、100年前の創設当時、日本のサッカーはビルマ人留学人チョウディンの教えによって大きく発展したことは皆さんもご承知でしょう。初めは早稲田高等学院が彼の教えを受けて第1回旧制高等学校大会(インターハイ)で優勝します。そして、その後1923年の関東大震災で留学先の学校が休校になったことを利用して、チョウディンは日本全国を回って旧制中学、旧制高校でサッカーを教えたのです。

 当時のビルマはイギリス領インドの一部で、チョウディンはビルマに数多く駐在していたスコットランド人からサッカーを教えられました。当時のスコットランドは「ショートパス」で有名でした。ですから、そのチョウディンが日本人学生たちに教えたのはパス・サッカーであり、現在の日本のパス・サッカーにつながっているのです。

 つまり、ミャンマー(ビルマ)は日本のサッカーにとっては“恩人”なのです。

 そうしたことを考えれば、「ミャンマー戦が可能かどうか」といったことではなく、日本のサッカー界として困難な状況にあるミャンマーのサッカー界やミャンマー市民に対して、何らかの形で支援したり、連帯の意思を伝えたりできないものでしょうか。

 たとえば、もし、ミャンマー戦がいずれ実施されたとしたら、スタジアムに集まったサポーター全員で抵抗を意味する三本指のサインを掲げるとか……。

 さて、2014年10月にミャンマーを訪れた時の話は『蹴球放浪記』の第4回「アジア最高の隠れた酒飲み天国・ミャンマー」の巻で書きました。現地で飲んだミャンマー製のワインやビールがとても美味しかったという呑気な話です。

 しかし、もちろん、僕はミャンマーまでわざわざ酒を飲みに行ったわけではありません。目的は、AFC・U-19選手権大会でした。

 鈴木政一監督(現ジュビロ磐田監督)率いる日本代表は準々決勝で北朝鮮と対戦しました。もちろん、日本がボールを持って攻め続けるのですが、北朝鮮の堅い守備とGKチャ・ジョンフンの好守の前にどうしてもゴールを奪えず、逆に前半のうちにカウンターから失点を喫してしまいます。日本は83分に南野拓実(現サウサンプトン)のPKでなんとか追い付きましたが、その後も北朝鮮の守りを崩せず、1対1の同点のままPK戦にもつれ込み、5人目の南野のキックがチャ・ジョンフンにストップされて日本はU-20ワールドカップへの道を閉ざされてしまいました。

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