かつて美女ばかりが住む街が中央アジアにあったと、ベテラン・ジャーナリストは言うのだ。そこでリードした試合を引き分けに持ち込まれた日本代表監督は更迭の憂き目にあったのだ、と。美女の色香に惑わされたわけでもあるまいに。本稿では、日本代表のワールドカップ初出場の真実に迫る――。
■1997年、浦島太郎は竜宮城に行った
1997年10月4日。フランス・ワールドカップ予選を戦っていた日本代表はアルマトイのスタディオン・オルタリクでカザフスタン代表と対戦。日本は前半22分に名波浩のCKからDFの小村徳男が頭で決めてリードしましたが、91分に右サイドを崩されて1対1で引き分けてしまいました。
たしかに、せっかくのリードを守れなかったのは残念でしたが、アウェーで引き分けたことでそれほど悲観的になる必要はなかったはずです。カザフスタンは、この大会、アウェーでは全敗でしたが、ホームでは1勝3分無敗。ホームでは強いのです。
しかし、日本人はこうした勝点計算の世界に慣れていなかったので、前節、韓国に逆転負けを喫した記憶もあってパニックになってしまいました。そして、その晩、日本サッカー協会の首脳陣は宿泊先のホテルで会議を開き、加茂周監督の解任と岡田武史コーチの昇格を決めました。監督経験がまったくない岡田を監督にするというのはかなりのギャンブルだったと思います。
この時のカザフスタン遠征は、僕にとって初めての中央アジアでした。1980年代まで中央アジアはソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の一部でした。1960年代に日本代表がソ連遠征をした時にカザフスタンやウズベキスタンで試合をしたことはありましたが、公式戦で交流が始まったのは中央アジア5か国が独立した後のことでした。
アルマトイは周囲を山々に囲まれた美しい都市でした。緑も多く、広い街路にはソ連式のトロリーバスが走っています。
そして、日本人記者団を温かく(?)迎えてくれたのが「偽警官」たちと「美女群団」でした。
といっても、美女たちは歓迎のために集められたわけではありません。街の中を歩いている女性の多くが(「みんな」ではありませんが)美しいのです。要するに“美女率”がきわめて高かったのです。
男性記者たちは、色めき立ちました。
若い記者だけではありません。この時の遠征には大先輩記者の中条一雄さん(元朝日新聞運動部)も同行していましたが、その老記者(失礼!)までもが「奇麗な女が多いねぇ!」と興奮気味です(ちなみに中条さんは当時71歳。まだまだ老け込むような年齢ではないのですが、当時の僕は「中条さんは老人だ」と思っていました。ごめんなさい)。
街も奇麗だったし、食事も美味しかったし、試合結果は別として初めてのカザフスタン滞在は快適そのものでした。
メテオのスケートリンクも観光してきました。かつて世界記録が数多く出るので有名だった高速屋外リンクです。標高1700メートル近いので空気抵抗が少ないのが記録が出やすい理由でした。
天山山脈の支脈に囲まれたアルマトイの市街地も標高が1000メートル近くあります。
日本代表の失点場面では明らかに日本の選手たちは集中を欠いていました。空席だらけのスタンドや乾燥しきった空気、16時キックオフという薄暮……。そして、微妙な高さの高地。こうした環境がアウェーチームの集中力を削いでいくのでしょう。