■16万人の誰もが見ていなかった
「VARがあればこんな醜いことは起こらなかった」と思われるのが、1989年9月3日のワールドカップ南米予選、ブラジル対チリで起こった「ロハス事件」である。勝ったほうがイタリアへの切符を手にする大事な試合。事件はブラジルが1点を先制した後半に起こる。チリのGKロベルト・ロハスが突然頭をかかえて倒れたのだ。彼の側には、観客席から投げ込まれたと思しき1本の「発煙筒」が煙を上げながら燃えている。
誰もが、ロハスが発煙筒に打たれて倒れたと思った。すぐにドクターが駆けつけ、応急手当てをしたが、ロハスの顔は見る間に額から流れ出た血で真っ赤になった。チリはチーム全員でロハスをかかえて退場、「選手の安全が保証されないので試合はできない」と試合続行を拒否、後半25分の時点で試合は打ち切られた。
この日、リオのマラカナン・スタジアムを埋めた観客は16万人。だがプレーがブラジルのエンドで行われていたため、誰も「その瞬間」を見ていなかった。もちろん、3人の審判も、そしてテレビカメラさえも、発煙筒がロハスの頭を直撃する瞬間をとらえたものはなかった。このままでは、良くても第三国での再試合、悪くすればブラジルの失格となってしまう。ブラジルが第1回大会から唯一続けてきたワールドカップ連続出場の記録も、ここで途絶えるのか……。
だが事件は予想外の展開を見せる。プレスルームで、ひとりのアルゼンチン人カメラマンが「ロハスには当たっていない」と言い出した。なぜわかるのかと聞かれた彼は、「その瞬間の写真を撮った」と答えた。ブラジル協会の役員が飛んできて写真の提供を求めた。そして数時間後、現像された写真には、発煙筒がロハスから1メートル以上離れたところに落ちるところが見事にとらえられていた。煙の流れから、ロハスの頭に当たってから落ちたわけではないことも明白だった。