■名将シェーン監督(西ドイツ)の名采配
「スター選手を守らなければならない」ことを痛感したFIFAは、厳しく反則をとることにした。警告、退場の処罰を下すときに混乱がないよう、イエローカードとレッドカードが考案されるのはこの大会後のことである。そして何よりも、負傷でチームの戦闘力が落ちるのを防ぐため、選手交代を認めることとした。
日本はその恩恵を受けたひとつだった。理由を問わず2人の交代を認めることにした初めての世界大会であるメキシコ・オリンピック(1968年)で、交代選手をうまくつかいながら厳しい試合をしのぎ、銅メダルを獲得したからだ。グループステージのブラジル戦、後半38分に同点ゴールを決めたのは、この試合2人目の交代選手としてわずか1分前に投入されたばかりの渡辺正だった。
そしてワールドカップで初めて選手交代が認められた1970年ワールドカップ。第1号は、開幕のメキシコ戦の後半開始からアルベルト・シェステルニヨフに代わって出場したソ連のアナトリ・プザックだった。
この大会、西ドイツのヘルムート・シェーン監督が画期的なアイデアを実行して「選手交代」の革命を成し遂げる。後半の半ば、相手選手が疲れてきたころを見越してフレッシュなドリブラーを投入。試合の流れを一挙に自分たちのものにもってくるのだ。準々決勝、0-2のビハインドに立たされたイングランド戦、西ドイツは後半12分に投入したユルゲン・グラボウスキーがドリブルで攻撃を切り開き、延長の末3-2と試合をひっくり返した。「戦術的選手交代」の時代が訪れたのだ。