黄金時代ののちに低迷、そしてメッシの退団騒動という激動を迎えた世界の名門バルセロナ。立て直しをゆだねられた指揮官は、栄光の中の栄光で輝いていた選手だった。結果として、世界ナンバーワン選手はチームに残り、クラブの会長は交代という事態を迎えた。指揮官の心中はいかにーー。
彼は、「エル・ドリームチーム」の英雄だった。
エル・ドリームチームとは、ヨハン・クライフが率いたバルセロナを指す。クラブ史上初のチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)制覇、リーガエスパニョーラ4連覇、コパ・デルレイ、3度のスペイン・スーパーカップ優勝、レコパ、UEFAスーパーカップ、数多のタイトルを獲得したチームだ。
なかでも、最も重要なタイトルとなったのがチャンピオンズカップだった。その1991-92シーズンのサンプドリアとの決勝で、勝敗を決するFKを沈めたのがロナルド・クーマンである。
そのクーマンが、この夏に監督としてバルセロナに帰還した。
■指揮官としてのキャリア
彼の指揮官としてのキャリアはフィテッセから始まっている。以降、アヤックス、ベンフィカ、PSV、バレンシア、AZ、フェイエノールト、サウサンプトン、エヴァートン、オランダ代表で指揮を執った。
その間、選手との軋轢は絶えず、クラブとも度々問題を抱えた。
アヤックス時代、アーメド・ホッサムと対立した。チーム事情をメディアに漏らしたホッサムに、クーマンは苛立った。また、ホッサムの練習態度に納得がいかず、最終的には彼をマルセイユに売却している。
バレンシアで指揮を執っていた時のエピソードは強烈だ。サンティ・カニサレス、ミゲル・アンヘル・アングロ、ダビド・アルベルダらを突如として戦力外にした。その後、アルベルダが「いつかクーマンにバルサで監督をやって欲しい。そうすれば、リーガは拮抗したものになるはずだ」という言葉を残すに至るほど、彼らの関係は悪化していた。
エヴァートン時代には、ロメル・ルカクに依存したチーム作りを進めた。ルカクがマンチェスター・ユナイテッドに移籍して、クラブがオリヴィエ・ジルーの獲得に失敗すると、クーマンは解任後に成績不振の理由をそこに求めた。その夏、エヴァートンの補強資金は1億6000万ユーロ(約192億円)だったにもかかわらず、である。