■サンフレッチェ広島のスカウト時代に北九州に来ていた
──玉井社長の、地域、住む人々の気質に根差したクラブ哲学にも共鳴されたと聞いています。
「はい。もともとここのエリアには、日本サッカーリーグの新日本製鐵八幡サッカー部がありました。私自身はアビスパ福岡のサテライトの監督を引き受けた2000年の時点で、北九州のサッカー事情について分かっていました。
サンフレッチェ広島のスカウトをやっていた97年から98年にかけては、中学生の選手を何度も見に来ていましたし。哲学のところで言うと、いろいろな方に“最後はガス欠をする、足が動かない、守り切れない”ということを聞いたので、走れるチームを作ったほうがいいし、若いチームになのでそうなるだろう、とも思いました。
玉井社長が話していた『最後まで諦めずに勇猛果敢に、自己犠牲を恐れずに徹底的に攻め続ける』というサッカーが地域の人たちの心の有りように沿っているものなら、それはやっぱりアグレッシブなチームがいいということになりますよね」
──それにしても、18年のJ3最下位からいきなりのJ2昇格には驚かされました。
「一緒に北九州へ来た天野(賢一)ヘッドコーチ、村岡(誠)フィジカルコーチらと話をしながら、足を動かして前からプレスをかけていこうと考えました。清水を離れていろいろなところへサッカーを観に行ったり、解説をしたりしながら改めて感じたのは、日本にはうまい選手が増えているということです。それなのに、守備ばかりをやらせるのも……。
勝つために守備が先行するのではなく、前から守備をさせることはできないか。実は12年に徳島(当時J2)の監督を任された頃から、そんなことを考えていました。かつて大分(当時J2)の監督を途中で引き受けたときにも、前からのプレスをやっているんです」