■ワールドカップにおける、アルゼンチンとボールの関係
さて、今回は、「ボールは誰のものか」という話である。
「いかなる試合においても、使用されたボールは試合場を管理した協会またはクラブの所有とみなし、試合終了後には主審に返さなければならない」
かつて競技規則(ルール)にはルール本条のほかに「公式決定事項」という項目があり、1957年以来、「第2条ボール」の公式決定事項には上記のように書かれていた。ちなみに、1997年にルールが全面改定されたときにこの項目はなくなり、ボールの所有者にかかわる記述はなくなった。
ただ、こうした規則があっても、ボールの所有権についてはいろいろといざこざがあった。「自分のものだ」と主張するのが、選手や、ときによってその試合を担当したレフェリーであり、国によってさまざまな慣習があったからだ。
サッカーが誕生した19世紀の半ばには、ボールは貴重品だっただけでなく、町の職人たちの完全手作りだったから、規格もばらばらだった。試合をする前には、どちらのチームが持参したボールを使うかの話し合いを行わなければならなかった。それから半世紀以上経た1930年の第1回ワールドカップの決勝戦でのエピソードは、ボールというものが今日のようにどこの国に行っても同じで、試合会場で初めて使ってもそう不都合ではない状況ではなかったことを物語っている(といっても、違うボールを使う試合に向けてのトレーニングでは、その試合球を入手して使うのが今日でも常識だ)。
開催国ウルグアイとアルゼンチンの第1回ワールドカップ決勝戦は、単なる決勝戦ではなかった。ウルグアイは1924年と1928年のオリンピック・チャンピオンであり、1928年のアムステルダム大会の決勝戦の相手こそアルゼンチンだったからだ。両国はラプラタ川をはさんだ隣国同士であり、ともにスペイン語を話し、歴史的にも民族的にも「兄弟」のような関係だったが、それだけにライバル心は強く、1916年に始まった南米選手権(今日のコパアメリカ)では前年までの12大会中ウルグアイが優勝6回、アルゼンチンが4回と、まさに「不倶戴天」の間柄だったのだ。
その決勝戦を前に、両チームがどうしても譲らないと主張したのが、使用球だった。ウルグアイはウルグアイ製のものを、そしてアルゼンチンはアルゼンチン製のものを使うと主張したのだ。キックオフ時間が迫っても両者は譲らず、結局、ベルギー人主審のジョン・ランゲヌスがピッチの中央でコイントスをしてアルゼンチン製ボールを使うと決した。
試合はウルグアイが先制、アルゼンチンがすぐに追いつき、前半終了までに逆転に成功する。しかし後半、ウルグアイがロングパスを多用する戦法に出て勢いを盛り返す。そしてペドロ・セアが同点とすると、サントス・イリアルテ、さらにエクトル・カストロとたたみかけ、4-2で第1回ワールドカップを手中にした。ウルグアイは、ホームで戦う利でボールの不利を補ったのである。
1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会では、決勝戦の主審を務めたイタリア人のセルジオ・ゴネラが使用ボールを記念品として持ち帰ってしまい、大きな問題となった。ワールドカップ初優勝に沸いていたアルゼンチン。しばらくたって決勝戦で使われたボールがないことがわかり、調べたところ、ゴネラが持ち帰ったことが判明した。あわてたアルゼンチン・サッカー協会とアルゼンチン政府はゴネラに返還を求めた。
だがゴネラは応じなかった。「ボールが勝ったチームのものになるなんて、どこにそんな決まりがあるんだ?」。2018年6月19日、ワールドカップ・ロシア大会で日本がコロンビアを破った日に85歳で亡くなるまで、「ゴネ得」と言うか、ゴネラはアルゼンチンからの要求を断固はねつけ続けた。ただ不思議なことに、アルゼンチン・サッカー協会には、「ワールドカップ初優勝時のボール」が堂々と飾られているともいう。