大住良之の「この世界のコーナーエリアから」 第17回「ボールは誰のものか?」の画像
一試合に使うボールの数は… 写真:サッカー批評編集部
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この惑星では週末になると、たったひとつのボールをめぐって、大の大人が大汗をかきながら走り回っては体をぶつけ合い、使い慣れた手ではなく、わざわざ不自由な足を使ってパスをつなぎ、網に囲まれたかごに入れた数を競い合っている。ボールはとても大事なもの。が、考えてみてほしい。試合中は誰もが欲しがるが、試合が終わったらいったい誰のものなのか?

■サッカー哲学が「ノー」と言う

 現代のサッカーでは「マルチボール・システム」が常識となっている。Jリーグでは試合ごとに7個のボールが用意される。一時にピッチ内でプレーされるボールは、当然のことながら1個だけだが、そのほかにゴールラインやタッチラインを出たときに交換で渡されるボールが6個ある。両ゴール裏に1個ずつ、両タッチライン際に2個ずつという形である。

 1試合で7個。最高級ボールが税込みで2万2000円近くするとしても、15万円強にしかならない。プロ野球では1個2600円のボールを1試合に120球も使うというから、優に30万円を超す。マルチボール時代になっても、サッカーは安上がりなスポーツなのである。

 マルチボール・システムの歴史はそう古いものではない。試合の中断時間を短くするために1995年にスウェーデンで行われた第2回の女子ワールドカップで試験導入され、翌年から各種の大会で実施されるようになった。Jリーグでも1996年から採用されている。

 マルチボール・システムが使われる以前には、試合は原則として1個のボールで行われることになっていた。もちろん予備のボールは用意されていたが、これが使用されるのは、試合中にボールが壊れたり、ピッチの外に出たボールを取り戻すのに時間がかかる場合などに限られていた。

 当時の試合終盤の時間かせぎは、今日のような「コーナーでのボールキープ」などではなく、もっぱら「スタンドにボールをけり込む」ことだった。とくにホームゲームで勝っている場合、スタンドに大きくけり込むと、ファンも十分承知で、ボールをあっちこっちに投げ合うなどしてなかなか返さず、たっぷりと時間を使ってくれるというルーティーンが、毎週毎週、世界の各地で繰り返されてきた。

 ただ、誰もがそうしたわけではない。

 イングランドで行われた1966年ワールドカップの決勝戦、「サッカーの母国」でありながら、これまでワールドカップで決勝戦進出もなかったイングランドは、西ドイツを相手に3-2とリードして終盤を迎え、あと数十秒で試合終了というところまでこぎつけた。そのとき、西ドイツのDFウィリー・シュルツが入れたクロスをペナルティーエリア中央でキャプテンのDFボビー・ムーアが胸でコントロールし、エリア左にもって出た。

 すでにスイス人のゴットフリート・ディーンスト主審は笛を口にやっている。

「スタンドにけり込め!」

 ムーアとセンターバックのコンビを組むジャッキー・チャールトンが叫ぶ。スタンドのファンも、「こっちによこせ!」と求める。スタンドにけり込めば、試合は終わる。ホームのサポーターの前で、イングランドはようやく「世界チャンピオン」となれるのだ。

 だがムーアがこの大会の3年前に22歳の若さでイングランドのキャプテンに指名された理由は、冷静な判断力とゲームを読む特別な能力だけではなかった。類いまれな人格、スポーツマンとしての高潔さが、「サッカーの母国の顔」としてふさわしかったからだ。(おそらくアルフ・ラムゼー監督も「出せ!」と叫んだ)卑劣な時間かせぎは、彼のサッカー哲学に反することだった。そして同時に、ウェストハムのチームメートであるFWのジェフ・ハーストがどこにいて何を狙っているのかも、ムーアにはよく見えていた。

 味方と短いパスを交換して少しボールを持ち出すと、ムーアは迷わずに最前線のハーストにロングパスを送った。ハーストは独走し、彼自身の3点目、ハットトリックを完成するだけでなく、イングランドの初優勝を決定づける4点目を叩き込んだ。そして西ドイツが次のキックオフをする前に、試合終了の笛が吹かれた。

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