■泥仕合ならぬ「どろんこ試合」
埼スタの試合は「水球」と言っても過言ではなかったが、ピッチはどろんこではなかった。しっかりと根づいた芝生のおかげだ。その点、現代の選手たちは恵まれている。1980年代まで、日本のサッカーは雨が降ればどろんこということが多かった。
日本サッカーリーグ時代(1965~1992)で最も有名な「どろんこ試合」と言えば、1966年5月の「雨の国泰寺高校」だろう。リーグ2年目の第5節。リーグ初年度の前年から18戦無敗(もちろん初年度王者)、そしてこのシーズンは開幕から4試合無失点だった東洋工業に初黒星がついたのが、日立を迎えた国泰寺高校での試合だった。
「グラウンド一面の水たまり」と、当時の記録にある。
広島には、1951年の国体に使われた「広島県総合グランド」の陸上競技場があったのだが、日本サッカーリーグでは使うことができなかった。信じられないかもしれないが、広島では、市内の広島皆実高校、広島大学附属高校、広島国泰寺高校といった高校のグラウンドで、入場料を取って試合を開催していたのである。もちろんすべて土のグラウンドだ。
大雨にもかかわらず2000人もの観客がつめかけ、傘をさして突っ立ったままグラウンドを取り囲んだ。しかし王者・東洋工業は代名詞とも言えるパスワークをまったく発揮できず、CKとPKで2点を得たものの、「キックアンドラッシュ」に徹した日立に3失点を喫して2-3で前年から続く無敗記録に文字どおり「土がついた」わけだ。足首まで埋まる「泥沼」のなかで、両チームのユニホームはたちまち汚れ、東洋の水色も日立の白も見分けがつかなくなった。かろうじて、胸から上の白さで日立の選手とわかる程度だった。
だが日本のサッカーで「最も重要などろんこ試合」と言えば、やはり1985年3月21日、東京・国立競技場で行われたワールドカップ予選の北朝鮮戦にとどめを刺す。
80年代前半、森孝慈監督率いる日本代表は、木村和司を筆頭に才能あふれる選手をそろえ、期待を集めていた。しかし1984年に行われたロサンゼルス・オリンピック予選で4戦全敗に終わり、森監督も辞意を固めた。ところが後任監督(加茂周=当時日産監督=の予定だった)が正式決定する前に行われたソウルでの日韓定期戦で2-1の勝利を収めたことで、急転直下、森監督の就任が決まった。オリンピック予選まで攻撃面に重点を置き過ぎていたことを反省した森監督は、中盤に西村昭宏と宮内聡という「ボールウィナー」を並べることで攻守のバランスを取り、この年の2月に始まったワールドカップ予選に臨んだ。
初戦は2月23日、アウェーのシンガポール戦。「1次予選」は、日本、シンガポール、北朝鮮の3カ国によるホームアンドアウェー制のリーグだった。シンガポールの暑さをものともせず木村和司が左CKを直接けり込んで先制し、同点とされた後半には柱谷幸一と原博実がたたみかけて3-1で快勝、最高のスタートを切った。前の月にはシンガポール×北朝鮮というこのグループの初戦が行われており、1-1で引き分けていただけに、チームに自信を与える勝利となった。
そして迎えた第2戦が、3月21日、冷たい雨が降る東京・国立競技場だった。まさに「菜種梅雨」の時期。この週の東京は、日曜日、火曜日と1日おきに雨が降り、木曜日にあたるこの「春分の日」も、前夜からの雨が降りしきり、最高気温も10度に届かなかった。
この天候は、日本のファンの足を遠のかせ、スタンドには動員された北朝鮮のいくつもの大集団ばかりが目立った。日本サッカー協会の記録では「2万5000人」とされている観客のおよそ半数が在日の北朝鮮応援団だっただろう。しかし日本に「サポーター」が生まれる以前の時代、スタンドからの声援は圧倒的に北朝鮮応援団であり、日本代表選手たちにとっては「完全アウェー」のように感じられたに違いない。
だが、国立競技場はまがうことのないホームだった。
1975年に香港でアジアカップ予選を取材したとき、私は当時「アジア最強」と言われた北朝鮮のある弱点に気づいた。「雨に弱い」のである。その前年に来日した実質的な北朝鮮代表チームである「4・25クラブ」は枯れた芝生の上で圧倒的なスピードを見せ、日本を寄せ付けなかったが、そのサッカーは、1966年のワールドカップでイタリアを破ってベスト8に進出し、世界を驚かせたグラウンダーのショートパスを多用する戦術そのものだった。香港ではぬかるんだグラウンドでそのパスを消され、北朝鮮は苦戦の連続だった。それから10年を経ても、北朝鮮の強みは相変わらず「グラウンダー」だったのだ。
国立競技場の芝は、1989年に大改装されるまで「夏芝」だった。夏の暑さにはめっぽう強いが、秋には枯れ、緑が回復するのは5月になってから。枯れた状態で雨が降ると、「どろんこ試合」になった。そして大雨だとあちこちに大きな水たまりができた。北朝鮮の最大の武器であるすばやいパス交換を止めたのは、まさにこのグラウンドコンディションだった。
もちろん日本も、攻撃の主要武器を「無力化」されていた。木村和司や水沼貴史、そして左サイドバックながら攻撃面の大きな武器に成長していた都並敏史らのテクニックやパスワークを生かすことができなかったのだ。
「主役」となったのは、西村と宮内だった。読みの良さと集中力で抜きん出たこの2人は、北朝鮮の中盤選手たちに激しく詰め寄り、深いタックルでプレッシャーをかけ続けた。午後2時に試合が始まると、真っ白だったはずの2人のユニホームはまたたく間に泥で無残な姿になった。だがこの汚れたユニホームこそ、この試合の象徴だった。