■歴史を動かした必殺プレー

 そして前半20分、「そのとき」がくる。
 日本の攻撃をはね返した北朝鮮が中央に送った縦パスはセンターサークルの手前で力を失い、西村が出足よくカット。彼は時間を無駄にせず、左足で前方に強いボールを送った。最前線には原博実、そしてその右に木村。だがボールの行く先には、木村をマークしながら中央に絞ってきた北朝鮮左サイドバックのキム・ガンオクがはいろうとしている。西村のパスの強さを見て、キム・ガンオクは数バウンドしたところを処理しようと、ゴールの方向に戻りながらポジションをとった。だが原は違うものを見ていた。

 1958年10月19日、栃木県の旧黒磯町(現在の那須塩原市)生まれ、このとき26歳。矢板東高校から早稲田大学に進んだ原は、183センチの長身を生かし、西ドイツ代表のウーベ・ゼーラーをまねて研鑽を重ねたヘディングで活躍し、1978年には20歳で日本代表にデビュー。1981年に三菱重工にはいり、日本サッカーリーグと日本代表でエースとして活躍した。けっして器用なタイプではなかったが、常に真剣に練習に取り組み、センターフォワードとしてのプレーを研究し、ストイックにトレーニングする姿勢は、周囲から高く評価された。

 私が監督を務める女子チームは、1980年代の前半、東京・巣鴨にある三菱養和会のグラウンドで水曜日に開かれていた審判員のトレーニングの片隅を借りて他の女子チームの選手たちとともにトレーニングをしていたが、そこでひとり黙々と走る原の姿を見ることは珍しくなかった。

 北朝鮮戦の前半20分、西村が前方にキックするのを見た原は、すばやくボールから目を離した。ヘディングの巧拙はボールの落下点を見極める速さにある。原は一瞬で落下点を見た。そして何よりも、そこに水たまりがあるのを見た。

 低く強くけった西村のパスはワンバウンド目では強く伸びたが、ツーバウンド目がペナルティーアーク内の水たまりにつかまり、勢いが止まった。あわてて前進する北朝鮮DFキム・ガンオク。だが「そこに止まる」と直感して動いていた原が一瞬早かった。キム・ガンオクは体を投げ出し、原の足元にはいったボールを、ボールでなければ原でもいいから止めようと絶望的な努力をしたが、原はここでどろんこグラウンドでの「必殺プレー」を出した。そう、ボールの下に足を入れ、軽く浮かせたのだ。

 ボールだけでなく自らも小さくジャンプして鮮やかにキム・ガンオクのタックルをかわした原が、ゆっくりと転がるボールを追う。北朝鮮のGKキム・ガンイルが猛烈な勢いで原の足元に向かって飛び出す。だがその一瞬前、原は右足のインサイドを使い、ゴールエリアの少し手前からゴールに送り込んだ。原とGKキム・ガンイルがもつれて倒れたとき、日本サッカーの歴史を動かすゴールが決まった。

 1-0の勝利で、日本は1次予選突破に大きく近づく。そして4月30日に北朝鮮のピョンヤンで行われた試合を0-0でしのぎ、日本のファンがほとんど期待していなかった次のラウンドへの進出を決める。

 このワールドカップの予選は、アジアを東西に分け、それぞれから1チームずつ代表を出すことになっていた。第2次予選はその「準決勝」に当たり、日本は香港と対戦して2戦2勝。ついにワールドカップ初出場への「王手」をかけて「決勝戦」で韓国と対戦する。だが韓国に力負けする形で連敗。ワールドカップ出場の夢はならなかった。

 ライバルの韓国は1983年にいち早くプロ化し、急成長を遂げていた。このままでは韓国に引き離されるばかり……。そうした思いが、日本サッカーリーグ内に「活性化委員会」をつくらせ、その当然の帰結としてプロリーグ設立へと向かわせることになる。Jリーグが形になるまでまだ5年もの月日が必要だったが、あの雨の国立競技場、どろんこを生かした北朝鮮戦の勝利がなければ、それまでと同様、「もうひとつの予選敗退」にとどまり、日本サッカー界が「革命」とも言うべきプロリーグに大きく踏み出すのは、あと数年遅れていたかもしれない。

 バブル経済の崩壊で「スタートが1年遅れていれば実現しなかったかもしれない」と言われるJリーグ。それをなんとか「滑り込み」でスタートさせたところから日本サッカーのまったく新しい歴史が始まったことを考えれば、北朝鮮戦が日本のサッカー史、いや大げさでなく日本のスポーツ史でいかに重要な「どろんこサッカー」だったかがわかるだろう。
 

  1. 1
  2. 2
  3. 3