一瞬の虹が見えた

 1947年3月3日生まれ、私より4歳年上の「マエストロ」は当時40歳。32歳で選手を引退した後、プロの監督として働き始めて8年目。この年にペニャロールの監督に就任し、彼自身の初タイトルであるリベルタドーレス杯優勝を成し遂げたばかりだった。しかし彼はどんな相手にもソフトな物腰を崩さず、愛情をもって若い選手たちを見守るというタイプだった。たしかに、20代はじめの選手たちにとっては、「先生」そのものの存在だった。

 誰でも知っているように、後に彼は世界的な監督となる。

 アルゼンチンのボカ・ジュニアーズ、イタリアのACミラン、スペインのオビエドなどの監督を歴任する間に、1988年から1990年、そして2006年から現在に至るまで、2期にわたってウルグアイ代表の監督を務めた。とくにその2期目にはウルグアイ代表に新しい黄金時代を築き、2010年ワールドカップ・南アフリカ大会ではベスト4。FIFAランキングでも、就任時の29位から現在の5位まで押し上げた。

 ギラン・バレー症候群という難病に冒され、杖をつかなければ歩けない状態で2018年ワールドカップ・ロシア大会で指揮をとった後も、ウルグアイ・サッカー協会は2022年ワールドカップ・カタール大会までさらに4年間の指揮を彼に任せることを決める。

 オスカル・ワシントン・タバレスはすでに「伝説」だ。「1つのナショナル・チームのAマッチ指揮数」で昨年末までに209試合を数え、他を圧する歴代首位の座にある。彼の他に200試合を超える監督はいない。

 しかしどんな名声を得ても、彼が変わることはなかった。1987年のトヨタカップの後、1999年のU-20ワールドカップ・ナイジェリア大会(彼はFIFAのテクニカル・スタディ・グループの一員として視察していた)をはじめ何回か彼に会い、そのたびに短時間話をしたが、彼はいつも穏やかで、「先生」のようなまなざしを向けてくれた。

 さて、1987年11月のモンテビデオ。私はこの穏やかな「先生」空前絶後の要望を突きつけることになる。

 ペニャロールのトレーニンググラウンドは、モンテビデオの北東約20キロの郊外にあった。施設名は「ロス・アモロス」。スペイン語で「ミモザ」を意味するが、もしかするとペニャロールの黄色いユニホームにちなんだものかもしれない。

 監督や何人かの中心選手のインタビューは、当時南米を放浪していた近藤篤さんが通訳をしてくれた。上智大のスペイン語科を卒業した後、得意の語学を生かして1986年のメキシコ・ワールドカップで日本の新聞社に嵐のように記事を送って得た資金で、彼は南米各地を回っていたのだ。後に日本最高のスポーツ写真家になる近藤さんだが、この当時はまだカメラを手にしていない。私に同行していた写真家の沢辺克史さんにいろいろ「スポーツ写真家の生活」などを聞いていた。

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