自身中心だった1982年&1986年W杯のセレソン


――1982年スペインW杯に出場したセレソンは、あなたとソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾによって形成された中盤が「黄金のカルテット」と呼ばれ、「ブラジルサッカー史上最もファンを魅了したチーム」と称されました。結果的には2次リーグ敗退でしたが、1982年の華麗なセレソンサッカーは最高のチームだったと思いますか?

「正直にいえば、最高だとは思わない。私が思う最高のセレソンはペレやガリンシャのいた1958年のチームだ。あのチームこそ、セレソンの歴史上最高のチームだったと思う。1982年のチームも、もちろん素晴らしいチームだった。計り知れない個の力を持った選手達が何人もいたのだから。しかし、残念ながら不運にも2次リーグでの敗退となってしまった。やはり、個の力は絶大だったが、組織力は劣っていたと思う。黄金のカルテットと呼ばれた私、ファルカン、セレーゾ、ソクラテスはそれぞれ素晴らしい能力を持っていたが、いかんせんこのメンバーは、W杯のために初めてテレ・サンターナ監督の下、チームプレーをした。4人で練習する機会は極端に少なく、組織プレーの完成には至らなかった。これこそが、ブラジルがイタリアに2−3で負けた最大の要因だった」

――1986年メキシコW杯。準々決勝のフランス戦は、「事実上の決勝戦」ともいわれた黄金カードでした。あなたも試合に出られPKを獲得するなどしましたが、PK戦の末に敗戦してしまいました。

「このチームも準備期間も計画も足りなかったと思う。1986年W杯のチームは、元々エヴァリスト・デ・マセド監督が指揮していた。それが南米予選中にテレ・サンターナに代わった。テレ監督は、自分が信頼を寄せる選手達、1982年のW杯を経験した選手達を招集してチームを再生しようとしたんだ。しかし、残念なことに、呼ばれた多くの選手がフィジカルに問題を抱えていた。身体が100%の状態ではないため、技術面をカバーすることもできなかった。私自身、膝の故障で手術をすることになった。若手選手や新たな才能の発掘が行われ、チーム力を高めようとしたが、フランス戦でPK戦の末、敗北を喫し、W杯を後にすることになってしまった。予選リーグの後、決勝トーナメントからノックアウト方式になるが、生きるか死ぬかの一騎打ちは、その日のコンディション次第で試合の情勢が変わってしまう。ブラジルは強豪フランス相手に精一杯やったとは思うが、コンディション不足だった、ということだ」

※第2回に続く。

(この記事は2017年6月13日に発行された『サッカー批評86』(双葉社)に掲載されたものです)

筆者プロフィール/リオ市在住。スポーツジャーナリスト。35年のキャリアを持つ。ジーコとの親交は30年以上。ブラジル有数の新聞社の記者として、これまでにW杯、五輪などを取材し、またフリーランスとして本の編集作業、ラジオテレビの仕事もこなす。ブラジルで最も歴史と権威のあるサッカー雑誌“プラカール”の元記者。
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