――Jリーグは1993年の開幕時から2ステージ制とチャンピオンシップを導入しました。そして2005年からは1ステージ制に変えましたよね。

木之本 当時、私は事業と運営の両方をやっていました。その際、加茂周さんのアドバイスもあって。まだ日本ではサッカーが成熟していない段階で、大きな山をいっぱい作った方が多くのチームにチャンスがあり、監督も選手もクローズアップされるんじゃないか。スポンサーもファーストステージとセカンドステージで、違ったスポンサーを冠にしてやったんですけども、当時は奏功したのではないかと思います。では、何で2005年に戻したのかと言うと、基本的にはボードメンバーの方々が議論して、どういうシステムにするかを決めた。私は既にJリーグを辞めていたので詳しくは知りませんが、それなりの理由があったんだと思います。卒業生には詳しいことは分かりません。

――1996年には1年間だけ1ステージ制を採用しています。あれはテストだったのでしょうか。

木之本 やってみたんですけど、鹿島がぶっちぎりの優勝でした。強いチームがダントツに優勝すると消化試合が多くなる、と翌年から戻しました。当時はテストというより試合数との兼ね合いで考えられた1ステージ制でしたね。

――今シーズンから2ステージ+チャンピオンシップ制が復活しました。さらに広告代理店を博報堂から電通に変え、明治安田生命保険相互会社を新たにタイトルパートナーに迎え、テレビ放送も地上波を増やすなど様々な改革をしました。

村井 Jリーグや日本代表を含めたサッカーそのものに、もっと関心を持ってもらいたいという一念ですね。「Jリーグに関心がありますか」とインタビューを含めてアンケートを取ったところ、「関心がある」という答えが30パーセント程度だったのです。ショックでした。一時期は46パーセントまで行っていた。それが3分の1くらいになっている。こうしたスポーツ離れの傾向はサッカーに限らず野球もそうですし、代表戦に限らずメジャーリーグベースボールもそう。相対的にスポーツに対する関心が低下している。それはJリーグを担う僕としてはショックで。スタジアムに来ていただいているお客様は、本当に興奮して楽しんでいただいているわけですから、サッカーそのものは魅力的なコンテンツのはずです。ですから、もっと多くの方に関心を持っていただくにはどうしたらいいかが底流を成す考え方でしたね。

木之本 時代が変わってきましたからね。

村井 リーグ運営資金が必要だったのか、という話を受けるのですが、チェアマン就任時の目的は一人でも多くの方に関心を持ってもらうことでした。付随的にお金の件もあるのですが、それによりデジタルトラッキングなど様々なデジタル投資に回すことができたのも事実です。しかし育成資金などJFA(日本サッカー協会)が多大なる支援をしてくれているので、大会方式の変更は資金の確保の解決方法だけではありません。このように様々な施策の中から資金確保をしているので、最終的にはどこまでサッカーに関心を持っていただける層を広げられるか、ということが、大会方式変更の第一の目的になります。

※第2回に続く

(この記事は2015年5月9日に発行された『サッカー批評74』(双葉社)に掲載されたものです)

木之本興三
1949年1月8日、千葉県千葉市生まれ。県立千葉高から東京教育大学を経て古河電工に入社。大学時代は主将を務め、インカレなどで優勝して将来を嘱望されたが、26歳の時にグッドパスチャー症候群を発症し腎臓を摘出。引退後はJSL事務長、総務主事を務め、日本サッカーのプロ化に尽力した。1993年のJリーグ発足後は理事や関連会社の社長を兼務。2002年の日韓W杯では日本代表の団長を務めたが、大会後にバージャー病を発症し、両足を膝の上から切断する大手術を受けた。2003年にJリーグを退職後は㈱エス・シー・エス代表取締役、アブレイズ千葉SC代表を務めるなどサッカー界に貢献。2017年1月15日永眠。(※2020年4月追記)
村井 満
1959年8月2日、埼玉県川越市生まれ。県立浦和高時代はGKとして活躍し、早稲田大学を卒業後は日本リクルートセンター(現リクルート)に入社。2000年に人事担当の執行役員に就任。2004年に本社執行役員兼務でリクルートエイブリック(後のリクルートエージェント)代表取締役社長に就任し、2011年まで社長を務めた。2008年にJリーグ理事に選任。2014年1月31日に第5代Jリーグチェアマンに就任した。J1リーグの2ステージ+チャンピオンシップ制導入やJ1とJ2クラブの財政健全化を推し進めつつ、自らも積極的な営業から新規スポンサーを獲得してJリーグの経営立て直しと、多忙な日々を送っている。
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